「言葉」に振り回されてるだけではないでしょうか。
いつもお世話になっています。
我々の悩みはすべて頭の中で、概念からつくられた「言葉」で作られていると実感しています。
現生人類の祖先であるホモ・サピエンスは喉頭上部から口までの管状が長いことよって多様な音声を発声できます。今の人類が生存している要因の一つとであるとの説があります。
「言葉」が生まれる以前は、分割・分離されていない「自然=全体」だけが眼前にあったと思われます。自分たちの食料や自分たちを脅かすものや有益なものを識別するために共通の「音=発声」によって作られた「言葉」が生まれたと思われます。
全てがフラットであり区別・差別のない全体であったはずです。あらゆるものには「意味」がくっついていて「言葉」になったのではない。全体から選ばれ分割したものに「名前」をつけ「意味」づけされていった。
この特定の「名前」が通じる集団内に「意味」があり、他の集団にとってはなんの「意味」もないただの「音」だけかもしれません。
私たちが、まったく知らない国の言語で話されているドラマを字幕なしに見ていると、よくこうもデタラメを次から次へと喋れるなあと感心することがあります。
人間ほどうるさい生き物は地球上に存在するでしょうか。他の動物が人間を観察すると、朝から晩まで休むことなく口をパクパク動かして意味のないことを発声していることがわかります。観察している動物やペットは、うんざりしているかもしれません。
あらゆるものに最初から「意味」はくっついていません。あらゆるものに最初から「ラベル=名前」はありません。人間が勝手に分割して勝手に「名前」を付けて勝手に「意味」づけしています。対象としたものに対して個人個人が個別に「意味」があるかどうかを判断しています。
「庭前柏樹子」(無門関第三十七則)で、ある僧が「祖師西来意」と問いましたが、ただ、祖師が来たという事実だけではないでしょうか。「祖師西来」に「意味」はくっついていません。「意味」があったかなかったかは個人個人の心境によります。
他人が感得した「意味」を聞いても自分の心境とはなりません。「意味」を聞くことは「無意味」です。「庭前柏樹子」も最初から「意味」をもっていたり「意味」のあるものではありません。
実際は、頭の中で実体の無い「言葉」や「概念」を巡らせて無意味に遊んでいるようです。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
みだりに言語を弄することなかれ
…とあなたは言葉で考えている訳です。
禅語に「眉鬚堕落(びしゅだらく)」という言葉があります。眉やひげが脱け落ちてしまう、と言う意味です。不立文字の教えの中で言語を弄してみだりに仏法を説くと、その罪で眉が脱け落ちてしまう、ということだそうです。
私もhasunohaで仏教を言葉を使って説明しているので、そのうち眉毛が抜けてくるかもしれません。眉毛が落ちる覚悟で言葉で教えを説くことを「不惜眉毛(ふしゃくびもう)」といいます。
あなたも眉毛を大切にしてくださいね。
質問じゃないのでどう答えればいいのかわかりません。
「戯論」
生きる糧様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「実際は、頭の中で実体の無い「言葉」や「概念」を巡らせて無意味に遊んでいるようです。」・・まさにこのことを「戯論」(けろん)と申します。
中論・「観法品」(第十八・第五偈)『業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分析的思考(分別)から〔起こる〕。それら〔分析的思考〕は、戯論(想定された論議)から〔起こる〕。しかし、戯論は空性(空であること)において滅せられる。』
中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』
中論・「観法品」(第十八・第九偈)『他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義(ものが異なっている)でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である。』
もちろん、「言葉」や「概念」も、実体の無い「空」ではありますが、世俗においては「縁起」なるものとして、「言葉」、「概念」も有効に成立し得るものとなります。
また、仏教の正しい理解、正しい実践のためには、当然に「言葉」、「概念」に依らなければならないこともあるため、安易に「言葉」、「概念」を全否定してもいけないものとなります。
中論・「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』
是非、龍樹大師の「根本中論」について、学ばれて頂けましたらと存じます。
しかし、いきなり原典(訳)に取り組むのは難しいため、最初のお薦めは、ダライ・ラマ法王様の『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章』(大蔵出版)でございます。
川口英俊 合掌
悩み、の定義
はい、あなたのされたことは、「悩みの定義」であろうと思います。ある状況において、それを「言葉で」どう定義するか。悩みであるか否かは、実際その人が「悩み」と捉えるか否かであるという。
でも、言葉によって「これは試練である」「たいしたことない」と評価することもできるわけで、その自由さはいつでも私たちの手中にあると思います。
質問者からのお礼
川口 英俊 先生
ご回答ありがとうございます。
仏典のどこに何が書かれていて、何を引用すれば導けるかを適切に抽出していただき感謝いたします。
専門的に書かれた書物があることすら知らないし、目にしたこともない程度の者です。
先生の抜き出していただた、「言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する」というところがとても興味をもちました。
普段から、自身を常に観察するようにしています。普段当たり前に使っている「言葉」は、真実なのかということに疑問を持った次第です。名前や言葉なくただ見ていると、思いに振り回されることがありません。
存在は存在として「有り」ますが、概念や名前をすべて取り去って見るならば、いちいち区別差別する対象のない全体としてあります。存在として「有り」ですが個別の存在は「無い」になります。有るけど無い、無いけど有るという現実です。
区別・差別される前のありのままの姿です。「有る」とか「無い」というのも頭の中で構築した概念ですから本来は何も「無い」であって、生滅変化しながら眼前に展開されているだけです。
概念という実体のないものを客体として掴みとることは、空気を掴もうともがいているように感じます。
光禪 先生
ご回答ありがとうございます。
言語に頼らずに体験に努めてまいります。
合掌
佐藤良文 先生
ご回答ありがとうございます。
ご指摘の通り「定義」していては何時まで経ったも「言葉」を使った思考に囚われることになります。
起こったことは、ただ起こっただけの事で終わっています。
私という「思い」が、起こったことに対して「是非」や「善悪」を後からつけて勝手に悩んでいるということだと思われます。
犬が吠えてもただ「ワンワン」、カラスが鳴いてもただ「カーカー」でしかないのに、私を持ち出して、うるさいとか騒がしいとかの「定義」づけをしているだけです。
「犬」も「吠える」も「カラス」も「鳴く」も全ては概念です。フランス人に「inugahoeta」と発音しても通じません。ただの概念で捉えているということだと思われます。
実際「犬」も「カラス」も「言葉」で「定義」しただけであって、日本人が勝手に「犬」・「カラス」と名前をつけただけです。
「ゲー,gae」と言われたもなんだか分かりませんが、韓国語では「犬」です。日本では、「ゲー,gae」と言われても存在していません。
「ゲー,gae」は韓国人の方の頭の中で「犬」というイメージで存在しています。頭の中で勝手にイメージを操っているだけです。
「言葉」とイメージが結びついて頭の中で存在しているだけです。言葉とイメージが結びついていない幼児は、見えたまま、聞こえたままの世界にいて「定義」することなどできません。
全体をダイレクトに受け取り「いのち」のままに生きているのではないでしょうか。
「塩」という言葉を何回つぶやいても、どんなに「塩」を頭の中でイメージしてもしょっぱくはありません。どんなに多くの言葉で「定義」しても「意味」などないのではないでしょうか。
解ったということは、No Problem.ということであって、「定義」するとは新たに何かを掴むことになり問題はそのままのように感じます。
今後とも、よろしくお願いいたします。
合掌