他人との比較を捨てるとは
幸せな人生とは何か、どうなれば幸せになれるのかについてここで質問させて頂きましたが、「他人との比較や相対評価をやめ絶対評価で判断すれば幸せに気付ける」という考えがよく理解できません。
私が不幸だ、人生嫌な事ばかりだと感じるその”嫌な事”とは、
父に罵声や性的な冗談を浴びせられること
母に八つ当たりされること
通学時間が長いこと
いつも周囲から嫌われること
私の容姿や思考態度を批判され、直そうとしても上手くいかないこと
周囲を怒らせないよう気遣わなければならないこと
嫌いな勉強やコミュニケーションをしなければいけないこと
が主に苦痛原因であり、私が不幸だと感じることです。
しかしこれは私が周囲と比べているから不幸に感じているのではないと思います。
両親への不満は「こんな両親でなくあんな両親が良かった」という思いではなく、「そういう振る舞いをする人間の言うことを聞かねばならないこと」「嫌いな人間との接触を絶てないこと」「毎日不快な思いをさせられること」への不満です。
通学時間は短い人を羨んでいるのではなく、私はその時間を長く苦痛だと感じています。
人から嫌われいじめを受けることが苦しいのは、人気者を羨んでいるからではなく、人間関係やコミュニケーションが難しいのに強要されること、人から罵声を浴びせられることへの苦しみです。
私は私より勉強や仕事ができる人を羨んだり、より良い環境でそれをできる人と比べて落ち込んでいるのではなく、自分が苦痛だから勉強も仕事もやりたくないと言っているのです。
私はよく母からも、あなたは他人と比べて落ち込んでいると言われます。
しかし私は私を他人と比べていないと思ってきました。
他人と比べて私が劣るから落ち込んでいるのではなく、私の現状が私にとって苦しいから落ち込んでいるのです。
例えば今の私が毎日食事を取れること、生きていること、健康であること、学校に行けることを幸福だと考えるとすると、それこそ「戦時中に比べれば」「アフリカの子供に比べれば」「五体満足で生まれなかった人に比べれば」という他人との比較での幸せなのではないですか?
他人と比べるって何ですか?
自分の何を絶対評価すれば幸福だと思えるのでしょうか?
私は私の絶対評価で今までの人生を苦痛だと感じていると思っているのですが、違うのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心の進路
前回のご質問で
「私が今まで不幸で苦しかったのは、1度も”幸福な事”や”良い事”が起こらなかったからです。
それは私にとっての"幸福”や”良い事”が無いからなのではないでしょうか?」
とおしゃっていますね?これねー…正直、言いづらいのですが、教育の進路指導が間違ってたんですよ。
「夢を持て」「なりたい自分を描け」「努力すれば報われる」そう教わって、[就きたい職に就けませんでした→挫折しました。]これは分かりやすいですね。でも、今の日本ではそう教わって[就きたい職に就けました→挫折しました。]という若者がもの凄く多いんです。「なりたい自分になれたはずなのに、こんなハズじゃなかった。もういなくなってしまいたいです…」毎年4月5月ごろになるとこの手の相談が後を絶ちません。
人は良いことがあるから幸せになれるわけじゃないんです。
10年ちょっと前くらいかな?大脳生理学の学者さんが瞑想の達人の老僧さんに瞑想してもらって、脳波とか脳内分泌物を計測してみたんです。そしたら「科学的に定義できる幸せという現象(脳内)が全て現れていた」という結果が出たそうです。ただ黙って坐ってるだけで…ですよ。
自分の心の生活習慣を調えるという意識を持つといいですよ。頭に思い浮かべる言葉みたいな話ではなく、神経や分泌物の調子…心の体質とでもいうべきものが有るんです。あるいは、いつももっと働こうもっと動こうとしている心をどう手放すか。坐禅会のような場に行ってみましょう。
それで嫌なことが無くなるとは言いません。結局、出来事と心の体質とどちらか正解か…0か100かではありませんし。でも、ストレス耐性に違いが出ます。正直なところ、ご質問文の項目はどれも「誰だって嫌なことだけど、残念ながら社会に出ればどこにでもある苦」ですので、ストレスとの付き合い方を学ぶのがおススメです。
【狂乱往生】もがき苦しんでても
こんにちは。
前回、他人との比較する天秤について助言した張本人です。
前回の回答は、どうやら的外れであなたの納得できるようなものではなかったようですね。お役に立てず申し訳ありませんでした。
ところで、
”自分の何を絶対評価すれば幸福だと思えるのでしょうか?”
これ、本気でお尋ねですか?
本当の本当に本気でお尋ねなら、よくぞこれをお尋ねになられたと私は言いたい。これが本気なら、あなたは人生をかけるに値する最も重大かつ崇高な疑問を持った事になります。私の場合、私なりの結論を持っていますが、こんなところでちょちょいのちょいと解説されただけではあなたは到底納得いかないでしょうから、もし次の然るべきご縁があればそのときにでも。
どうかこの疑問を大切に温め続けてください。できれば、今生で解決される事を祈っています。