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夫への憎しみが消えない

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有り難し有り難し 40

夫が子供が同じ学校に通っている近所の若いシングルママさんと、夜中に車でねていました。

前々から、二人で飲みに行ったり、旅行にいったりしていました。
二人で出掛けていたことは認めていますが、浮気ではありません。と、言い張り。
私は理解できず。きちんとあやまることもないので、信じることができず、離婚しました。

離婚後まもなく、彼女は夫の家から度々朝帰りしていようになりました。

養育費はもらえるようになりましたが、慰謝料は浮気ではなかった。今も付き合ってないし、何もしていない。と、決定的な証拠もないので、慰謝料はありません。

私は彼らより幸せになることが仕返しだと、なるべく笑っているようにしています。

しかし、彼が子供との面会を希望していて、嫌でたまらない。
会いたいときに会えるようにしてほしい。と…

夜な夜な近所の女をとまりにこさせる男に会わせるなんて。

私は、そんな彼が図々しいと思えてしまいます。

彼は離婚はしたくない。するなら、お前が出してこい。どうせできねぇだろ。と、謝ることもないので離婚しました。

家族で一緒にいたかったのかもしれませんが、私は彼を許せません。

彼女も二人でねているところをみつかつたことを、マジうけるよねと、友達に話していたそうです。

頭にきて夫にそのことを話しても、俺は知らない!電話してこないで!逆ギレ。

私は、彼への憎しみは消せません。
不幸ばかり願ってしまいます。

そんな自分がいやです。

この憎しみ早く消したい。

どうしたら、消えますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人の席には座らない、関わらない姿勢を貫く。

人間は他人のことでもいつの間にか首を突っ込んで我がことにしているものです。
私も悪い癖でつい他人のことに首を突っ込むどころか気がついたらそこのイスに座っちゃっている場合があります。
まず、他人事は自分のことにしないことです。
相手が誰であっても我が子であっても「自分の」にしてはいけないのです。
たとえ自分自身の体であっても「自分の」思い通りにはなりません。
他人のイスは人さまのイス。
我が子と別れたダンナでもそれはもう他人サマ。
あなたは自由になれました。
あなたは旦那と離婚してもうほぼ関係なくなりました。これはめでたいことなのです。
世にはDV旦那と別れられない女性もいます。
あなたはデラックス自由人です。
以下のお唱えごとを念じてみましょう。
「他人事は自分のことにしない。」
イライラした時に念ずるとよいでしょう。
人間はつい他人のことでも我がことにしちゃうからいけない💦
自分の目を覚ますためにも第三の自己の立場で主人公過ぎる自分に向かって厳しく念ずると効果的です。個人的にツボっている動画を参考動画として載せておきましたので、過干渉になりそうなはご覧ください。
ついつい首を突っ込んで座り込み抗議をしている自分に私は言い聞かせております。
https://www.youtube.com/watch?v=nnCyVw9hZ6E
現場は現場でやっていること。
人のことは人のこと。
我が子であっても我が子も自分とは別の生命体。
干渉しない。
ダンナのちょっかい出してた女も旦那も我が子も、自身の怒りの感情ですら、自分のものにしないことです。どうしようもならんことを自分流に「何とかしたい」無意識で思う欲こそ迷いの原因。無自覚ながらも「そのことわたくしナイズしている」首ツッコミ&座り込み意識があるのです。
わがことにしない。
もう籍もないのです。
家にはもうあの憎い憎いにっくきあの💀KUSO旦那(仮名)の居場所すらありません。
もう晴れてお互い自由です。☀
お子さんにはパパは必要なのでそれは子供の権利として面会させてあげることは大事です。
あなたはあなたの居場所がある。
あとは、あなたはそこ以外の場に入り込んだり、干渉しなければいいのです。
そういう時も、自身に向かってこう言いましょう。
「自分のものではないのだ。」と。
他人の席には座らない。
自分の席に堂々と安座する。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

それこそが人間です。

あめさん

元夫への憎しみが消えないんですね。
文章を読ませていただいて、私まで感情移入してしまい、悲しく、怒りの気持ちがこみ上げてきました!本当に許せない!その女と不幸になってしまえばいいのに!とさえ思えます。

この憎しみの心がなぜ起こるのか?
それは人間なら当たり前のことです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、
「煩悩は私の心身に満ちていて、怒り、ねたみ、そねみなどの心は命終わる時まで消えることはない」
と言われました。

私たちを苦しめ悩ませる煩悩の中で、瞋恚(しんに)というものがあります。怒り憎む心です。自分の思った通りにならない時に腹が立つ。自分の欲を邪魔した者に腹が立つことです。

怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに沸き起こります。煩悩を抱えた私たちは、いつも自分の思い通りになることを期待します。絶対に思い通りになるはずのないことまでも、思い通りにしようとこだわります。

旦那さんへの怒りや憎しみの裏にはあなたの悲痛なまでの深い悲しみがあります。

また、旦那さんへの期待も含んでいます。
そんなことをされても、こうして欲しい
ああして欲しいとどこかで期待しているのだと思います。

あなたは旦那さんに深く傷つけられたのです。憎しみや怒りがあって当然です。
相手の幸せを喜べないことも当然のことです。

憎しみの心は薄れはしますが、なかなか消えることはありません。このことが解決しても、また別の憎しみが生まれます。

あなたはあなたのまんまでいいんです。
いつか仏さまの教えを聞く中で、煩悩を抱えた身であることに気付かされ、自分のこととして受け止めたときに初めて、煩悩があるまま、煩悩を超える違う生き方ができるんだと思っています。

今は無理でもきっといつか笑える日が来ます。
このことがあったおかげで今の自分があると思える日が来ます。
その時まで、その憎しみの心と上手に付き合ってくださいね。
あまり考えすぎても体に毒です。
たまには息抜きしてくださいね。

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有り難し
おきもち

広島市内中心部の寺町・品龍寺の副住職をしています。 2017年まで東京のお寺で働いていました。 浄土真宗のお坊さんですが、専門用語は出来るだけ使わず、普段通りの言葉を心がけています。回答は個人的な意見や解釈もありますのでご理解ください。

質問者からのお礼

丹下覚元様
ありがとうございます。私には3人の子供がいます。私には私の居場所がありますね。私も、自由ですね。別れた夫はもう他人と、わかってはいましたが、執着していました。自分のものではないですね!今の居場所に安座します。

慶成様
ありがとうございます。煩悩を抱えたまま煩悩を越えた違った生き方。いつか、このことがあって、いまの自分があると思えるよう、憎しみと付き合ってみます。それこそが人間と言っていただき、楽になりました。

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