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旦那に振り回される人生がもう嫌だ

回答数回答 1
有り難し有り難し 33

旦那は、結婚してから分かったのですが
200万円程の借金がありお金にルーズです

中学からアイドルオタクで子供が産まれても
見向きもせず、アイドル活動におかねをそそいでいます

子供が高校生になったので将来のためにためておいた
会社の自動積み立て金をおろしてほしいと言ったら

アイドルと風俗と出会い系との女性関係に全部使ってしまいました。

離婚を考えたのですが、まだ子供が巣立ってないためと
じっかの母に反対されてとどまっています

月に2回は今も東京に通っています

家計は火の車で毎月実家に無心しています。

行くときは一週間前に言うこと、チケットを買ったらいうこと
を1年も前から約束してるのですが、守れず明日行く、今日いくとなります。

車が1台しかないので私が友達と約束しててもドタキャンが続きます

今度もまた約束を破ったのでもういやです。目も合わせていないし口も聞いていません

はやくいなくなってほしいと恨みが増すばかりです
家の中は捨てちゃだめというアイドルグッズでいっぱいで立ってご飯を食べています

どういう心持ちで生活したらこの地獄から抜け出せますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供もある程度になればわかってくる

(´Д`)ダンナが人としてアウトであると、子供たちも同じ屋根の下で生活している以上、親としてアウトな人間だと分かってきます。
(*'▽')その頃になったら離婚すればいいでしょう。もしくはATMとしてご活用できるようでしたらそのまま上手にご活用ください。笑(いいんかい)
さて、ところでどうしてそんなダンナさんとご結婚なされたのでしょうか。
今でこそ冷めた関係であっても若い頃はそれなりに仲良くされていたはずかと。
男はアホなのであなたに当時のままの愛情を求めているところがあるかもしれません。今も「夢」を追っかけて現実をみないのですから。
お互い、子育てと共にお互いに気が向かなくなった結果、別の世界に愛と夢を求めていった面もあるかと。修復できるレベルでないなら子供のスダチと共にホナサイナラすればいいでしょう。
あなたの人生の主人公はあなた自身。お子さんの主人公はお子さん。
ダンナも旦那で好き勝手やってます。各自が本当に自分を生きるのです。
仏教では不胡酒戒という戒律があります。
依存するものを持つなという事です。
酒もドラッグもアイドルも男女も陶酔させるもの。
それ無しで生きられなくなったら人として弱さに負ける。
アイドルが歌う歌はどんなものでしょうか。
前向きで希望にあふれて元気な方向に向かわせるものばかりのはずです。
それをあなたの旦那が実際にやってくれているかどうか時には諭されてみてはどうでしょうか。
人は痛いところを突かれると徐々に変わっていきます。誰も突っ込まないからこそ何も変わらないのです。あなたの旦那にその人間性のイタさを諭せるのはあなたか子供か親しかいません。自分の非を指摘してくれる人がいない限り人はぬくぬく甘ったれ温泉♨に浸ります。
結論はあなたが立派な人になること。
旦那が反省してもしなくてもあなたが子供と共に立派になっていくこと。
旦那が大人になり切れない人間だったら、ご実家で養ってもらえばいいのです。
あなたはあなたの人生を生きて自立・自由になってください。
お疲れさまでした。
もう、ダンナの面倒は見なくていいと思いきりましょう。
まず、そこを目標にあなたが立派になるように生きてください。
すると結果的にあなた自身があなたの自立マインドによって救われ、子供も母親の背中を見て影響を受け、旦那は恥ずかしい思いをするでしょう。変わる変わらないは本人次第。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のご回答ありがとうございました。回答を読みながら涙がでました
結婚したいとおもったときもうアタックされ、2ヶ月でできちゃった結婚をしました。
とても反省しています。

自立していくこと、もう、旦那の面倒はみないこと、子供たちにも
かわいそうなことをしています。

私がしっかり子供の心に寄り添ってあげたいです。

子供の人生の主人公は子供、私の人生の主人公も自分。
間違えた人生を選択してしまったことを受け入れて、なんとか自立するように気を確かに持ちます。

共感してくださったことにも感謝しています。
ありがとうございました。

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