まだ生きている気がする
先日大伯母が亡くなりました。
98歳という大往生でした。
通夜と葬式を昨日終えたところです。
晩年は認知症で私の事は忘れたようで「どちら様ですか?」と言われました。
それでも私は大伯母の事が大好きでした。
大正時代から生きて、結婚への圧力は凄かったでしょう。それでも生涯独身を貫き一人で雑貨屋を営んでいました。
実家から徒歩2分ほどの場所に住んでいたので、小さい頃から料理を作ったら届けに行くのが日課でした。
いつも笑顔で接してくれて、何歳になっても背筋が真っ直ぐでした。
就職にともない実家を離れてからは会う機会が月に1回、半年に1回と少しずつ減りました。
最後の日も母から「午前から血圧が高くなってるらしいの、またお見舞いにいってやって」
と言われ
「分かった、じゃあまた今度の休みに行くよ」
そのまま午後に大伯母は亡くなりました。
なぜ「また今度来るね」という状況を作れなかったのか、それは未だに悔やまれますが
大伯母は棺桶の中の姿があまりにも綺麗で、死化粧も素敵に施していただけました。
葬儀場の椅子が足りなくなるほどの人に囲まれ、顔が見えなくなるほどの花に囲まれ焼かれていきました。
私は、出棺の時に棺を持ち上げても、大伯母がわずかばかりの真白な骨に変わっても、その骨を箸で掴んでも、なんだかピンとこないまま今日を迎えてしまいました。
涙は出ないままでした。
むしろ誕生日をお祝いするように穏やかな気持ちのままなんです。
現実逃避をしているのかもしれません。
今もどこか大伯母が生きているようで、一人暮らししていたあの家にいるような気がしてなりません。
あずきサンドが好きで、熱いお湯で淹れたお茶が好きで
今日も電子レンジでご飯を温めすぎて「嫌な熱さだ」と怒ってるかな。
なんて考えてしまいます。
生きてる姿しか見えません。
こんな経験は初めてです。
今までは、誰が死んでも葬儀が終わるまでには実感が湧いてきて涙が出てくることばかりでした。
なぜこうも思い入れの深い人に限って受け入れられてないのでしょう。
そもそもこれは現実逃避なのでしょうか
むしろすべて受け入れた結果のようにも思えます。
実感のない死との向き合い方
ご助言いただければ幸いです。
よろしくおねがいいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きている、ということ
こんばんは。貴重な体験について、話して下さってありがとうございます。
素直な感想としては、「生きている、というのはこういう事なのだ」と思いました。隣りにいたり、同じ屋根の下に暮らしていても、会話もせず気遣いもせず、いがみ合っている人間関係もあります。それは既に「お互い死んでいる」と呼んでもよいのかも知れません。
生物としての正しさや、社会的な正しさよりも、あなたなりの「生きている」の捉え方をして、よろしいのではないでしょうか。
それでいいのではないですか
現在、私の祖母も同じように、あなたと同じようにお別れを迎えようとしています。97歳です。元気なころと比べると悲しいものです。しかし、今までも一緒にいなかった時間もたくさんあり、問題なく過ごしてこれたわけです。「二度と会えない」と思うと悲しい気持ちにもなります。しかし、現実を受け入れありのままの様子でいられたら問題にはなりません。
涙を流すこともいいですし、流さないからといって問題なわけでもないでしょう。
今のあなたが死を受け入れてないとは思いません。むしろしっかり現実を見ているからこそ安心しているのではないでしょうか。
生命は終わってもいのちの働きは永遠に続きます。法の働きとして起きているのです。それで人はその流れに身を置いていることで安心できるのです。過去の記憶と比較してあーだこーだやることが、供養ではないと思いますよ。
あなたがさわやかに、手を合わせることができたらそれでいいのでしょう。
質問者からのお礼
お二方、お答えいただきありがとうございます。
なんだか穏やかなような、虚無のような不思議な状態です。
しばらく経ちましたが涙は出ず
きっとこういうものなんでしょうね
何故だ、と思わずに流れに身を任せてみようと思います。