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お題目とお念仏の両方

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日蓮宗信徒です。
南無妙法蓮華経と唱える以上は南無妙法蓮華経に偽りなく生きていきたい。
たくさん人を裏切り、たくさん人に迷惑をかけてきた自分を悔い、これからは意地でも真心で生きていこう。その為にもっと仏法を学ぼう。
そう思い始めましたら、南無妙法蓮華経と唱えることは南無阿弥陀仏しており、南無阿弥陀仏と唱えることは、南無妙法蓮華経をすることになるのではないか?
あの美しい阿弥陀様の御前にて、ひたすらお念仏をお唱えすることにより、今の自分に足りない何かを得られるのでは?
そう強く思うようになりました。お題目の為のお念仏、お念仏の為のお題目。
そのようなことから、定期的に阿弥陀様にお参りしたいと思っているのですが、お題目とお念仏、二つを信仰することは芯のない信仰になりますでしょうか?
また、双方の宗派に失礼にあたりますでしょうか?

2018年11月16日 22:38

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お題目とお念仏は違いますよ!

質問読ませていただきました!

宗祖であられる日蓮大聖人は、その御生涯においてお題目こそが一番素晴らしいのだ、ということを強く訴えて布教された方です。ですので、日蓮宗の信徒でありながら、お題目=お念仏という考えに至ることは、まさに個人的仏法の解釈となってしまいます。

何故一番素晴らしいのか、その理由を説明することについては、このハスノハのサイトの趣旨に反してしまうことになるので差し控えさせていただきます。

Lotoさんは、日蓮宗信徒とのことですので、おそらく日蓮宗の菩提寺をお持ちかと思います。
仏教で大切な事は、自分独自の解釈を生み出すことではなく、信頼できる師僧に習い、学ぶことです。
なぜなら、宗祖が亡くなられてから750年以上も化儀、教義、伝承、口伝などを通して宗祖の信仰が受け継がれてきて、それを修行を通して習い学んでいるのが僧侶だからです。
それらを無視して、自分の思い通りに教義を立てるのは、ただの新興宗教に過ぎなくなります。

一度、菩提寺のご住職にゆっくり相談して尋ねてみて下さい!

2018年11月17日 0:00
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京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の自然に囲まれたお寺で...

お念仏とは…

LOTOさん

ご質問読ませていただきました。
日蓮宗のことは専門のお坊さんが回答されていますし、私は浄土真宗の僧侶なので、お念仏のことを話します。

お念仏は、阿弥陀如来に「お任せする」ということで、何か自分に足りないものを得るためや、自分が偉くなるためにお念仏するわけではありません。

仏法を聞いたり、お寺にお参りをしたり、自分が何か努力をして偉くなるのではなくて、
その逆で、自分の愚かさに気づいていくのが浄土真宗の教えです。

たくさん人を裏切り、たくさん人に迷惑をかけてきた、そんな愚かで悲しみ苦しみが深い私たちだからこそ、そのことを見ぬいてくださって私たちが何もしなくても、阿弥陀如来の方から見捨てずに必ず救うと願い、働いてくださっています。
そのことにただ、「お任せします」というのがお念仏なんだと私はいただいています。

仏になるという目指すところは同じでもそのためのルートが違います。そもそも、大切にしている経典が違うので、全く別物になります。

参考にならなかったらごめんなさいね。

2018年11月17日 0:27
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慶成(けいじょう)
広島市内中心部の寺町・品龍寺の副住職をしています。 2017年まで東京の...

法華経にはお釈迦様の教えが書いてあります。
お題目をお唱えすることとは「南無妙法蓮華経」と唱えて、お釈迦様とその教えを敬うことでありますが、それだけではありません。この法華経に書いてあることを実践することも大切なのですよ。平等の精神を持ち、自ら持つ仏性に気づき、それを磨いていくこと。さらには、慈悲の心で他者に知恵を与えること、つまり、菩薩行を実践することも大切なのです。
また、お念仏は阿弥陀様を敬うことです。
それは、自らの命が終わった後、極楽浄土に連れて行ってもらい、仏道修行に励み仏様に成ることを願うことです。
いずれも仏様を敬い、その教えを信じ、あるいは、救いを願うことであり、あなた自身がより人としての成長を願い、その為の実践をすることになるのです。
お題目とお念仏は意味が違いますが、相反するものではありませんから、両方お唱えしても何も悪いことはありませんよ。
ただ、日蓮宗のお寺でお念仏をお唱えしたり、浄土宗のお寺でお題目をお唱えしたり、ということは余計な誤解を与える可能性があるので避けた方がよいでしょう。
南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏

2018年11月17日 16:10
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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...

質問者からのお礼

誠海様
ありがとうございます。表現が難しいですが、二つが違うと存じ上げているので、難しいなと。これからも精進したいと思います。

慶成様
ありがとうございます。
とても参考になりました。と同時に感動しました。「何か得られる」とは、ゆったりとした癒しのようなものを考えていたのですが、根本から間違っていました。
二つが違うのは存じ上げているのですが、ますますお念仏に魅力を感じました。
が、「二つを大切に」は難しいのですね。

三宅様
ありがとうございます。本当に尊いご助言、心より感謝申し上げます。お寺に出向くでもなく、こんなに有り難いお言葉を頂戴できるなんて本当に勿体ないです。
阿弥陀様が祀られているお寺さんにご縁があった時には、素直に感謝して、「南無阿弥陀仏」と唱えさせて頂きたいと思います。
そして仏様に恥じることのない日常を送れるよう、努力したいと思います。
心強いお言葉、誠にありがとうございました。

「念仏について」問答一覧

禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

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気持ちが変わってきた

こんにちわ いつもお世話になっています。 最近仏様にお祈りして頼っております。念仏を唱えると気持ちが落ち着き支えられています。 苦しい時の神頼み的で申し訳ない気もしますが… でも、何故か?唱えているとお線香の香りがして来て近くにいてくれていると感じます。 そのせいか、気持ちが変わってきて焦りではなく早く仕事に行きたいと思わせて頂くようになりました。 前はそう思っても怖い不安が先にたちなかなか面接行っても不採用にならないかなと思っていた自分がいました。 先日面接に行ってきてまだ、採用にはなっていませんが、手応えがありました。 今は仕事に行けたら嬉しいなと思えます。 体力的に自信はありませんが、当たって砕けろ的な考えです。 自分がどこまでできるか? ダメなら辞めてもいいって考えて気楽にチャレンジしてみようかなんて! 明日の事は誰にもわからないし わからないから希望ももてるし! 明日失敗するってわかっていてもそれをこなさなければならないならば、人間って生きていけない生き物ですよね? 何が起こるかわからないから期待や希望が持てる物だと感じました。例え失敗に終わってもそれはそれでチャレンジした自分がいるわけだから満足できるのかなと。 明日採用の合否がわかります。 祈っていて下さい。

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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

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【浄土宗】本当の念仏行って…何?

 いつもお世話になっております。  まず、質問に先立ちまして御礼とお詫びを申し上げます。  この件に大変尽力してくださった、先生方。ありがとうございます。 そして、大変申し訳ございませんでした。  お念仏は続けていますが、あれから菩提寺を含め、浄土系の寺院には お参りが途絶えている状況です。  私自身、自分の信じていた宗の精舎がすさんでいくのを見るのが とてもつらかったのです。私では、止めようがありません。  詳細を説明すると、 ・お坊さん(布教師)の言うことがちょっとおかしい  →他宗の行をけなしたり、念仏以外の行を積むと地獄へ行くなどと平然と  言い放つ、他の仏様をけなす。   「なむあみだぶつ以外は邪教!!」「本山が喧嘩しあってる」 「平等とは何だ」など、不安を煽るようなことを平気で言う。   結果、信徒の9割がその影響を受けて変な方に考えが行ってしまった。  とにかく、私はつらかったです。悲しかった。顔で笑っていても、 腹の底で悲しむ私の姿を、お母さんー阿弥陀様に見せたくない、 そう思って、門から出ました。  本当の念仏とは何?この数年間私は考えました。恋しい「親様」のために。  「苦行に費やす時間を、目の前の苦しむ人たちのために。 来たるべきその後の時は、仏様が確実に手を引いて導いてくれる」  他の神仏の悪口なんか言っちゃいないし、好き勝手どころか、むしろ、 「良心」を前提で動く私たちの背中を優しく見守ってくれる。 「ドジ踏んだって怒らないから安心しな」と。  本当の念仏行って、なんなんでしょうか?

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