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お題目とお念仏の両方

回答数回答 3
有り難し有り難し 72

日蓮宗信徒です。
南無妙法蓮華経と唱える以上は南無妙法蓮華経に偽りなく生きていきたい。
たくさん人を裏切り、たくさん人に迷惑をかけてきた自分を悔い、これからは意地でも真心で生きていこう。その為にもっと仏法を学ぼう。
そう思い始めましたら、南無妙法蓮華経と唱えることは南無阿弥陀仏しており、南無阿弥陀仏と唱えることは、南無妙法蓮華経をすることになるのではないか?
あの美しい阿弥陀様の御前にて、ひたすらお念仏をお唱えすることにより、今の自分に足りない何かを得られるのでは?
そう強く思うようになりました。お題目の為のお念仏、お念仏の為のお題目。
そのようなことから、定期的に阿弥陀様にお参りしたいと思っているのですが、お題目とお念仏、二つを信仰することは芯のない信仰になりますでしょうか?
また、双方の宗派に失礼にあたりますでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お題目とお念仏は違いますよ!

質問読ませていただきました!

宗祖であられる日蓮大聖人は、その御生涯においてお題目こそが一番素晴らしいのだ、ということを強く訴えて布教された方です。ですので、日蓮宗の信徒でありながら、お題目=お念仏という考えに至ることは、まさに個人的仏法の解釈となってしまいます。

何故一番素晴らしいのか、その理由を説明することについては、このハスノハのサイトの趣旨に反してしまうことになるので差し控えさせていただきます。

Lotoさんは、日蓮宗信徒とのことですので、おそらく日蓮宗の菩提寺をお持ちかと思います。
仏教で大切な事は、自分独自の解釈を生み出すことではなく、信頼できる師僧に習い、学ぶことです。
なぜなら、宗祖が亡くなられてから750年以上も化儀、教義、伝承、口伝などを通して宗祖の信仰が受け継がれてきて、それを修行を通して習い学んでいるのが僧侶だからです。
それらを無視して、自分の思い通りに教義を立てるのは、ただの新興宗教に過ぎなくなります。

一度、菩提寺のご住職にゆっくり相談して尋ねてみて下さい!

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京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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お念仏とは…

LOTOさん

ご質問読ませていただきました。
日蓮宗のことは専門のお坊さんが回答されていますし、私は浄土真宗の僧侶なので、お念仏のことを話します。

お念仏は、阿弥陀如来に「お任せする」ということで、何か自分に足りないものを得るためや、自分が偉くなるためにお念仏するわけではありません。

仏法を聞いたり、お寺にお参りをしたり、自分が何か努力をして偉くなるのではなくて、
その逆で、自分の愚かさに気づいていくのが浄土真宗の教えです。

たくさん人を裏切り、たくさん人に迷惑をかけてきた、そんな愚かで悲しみ苦しみが深い私たちだからこそ、そのことを見ぬいてくださって私たちが何もしなくても、阿弥陀如来の方から見捨てずに必ず救うと願い、働いてくださっています。
そのことにただ、「お任せします」というのがお念仏なんだと私はいただいています。

仏になるという目指すところは同じでもそのためのルートが違います。そもそも、大切にしている経典が違うので、全く別物になります。

参考にならなかったらごめんなさいね。

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慶成(けいじょう)
広島市内中心部の寺町・品龍寺の副住職をしています。 2017年まで東京の...
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法華経にはお釈迦様の教えが書いてあります。
お題目をお唱えすることとは「南無妙法蓮華経」と唱えて、お釈迦様とその教えを敬うことでありますが、それだけではありません。この法華経に書いてあることを実践することも大切なのですよ。平等の精神を持ち、自ら持つ仏性に気づき、それを磨いていくこと。さらには、慈悲の心で他者に知恵を与えること、つまり、菩薩行を実践することも大切なのです。
また、お念仏は阿弥陀様を敬うことです。
それは、自らの命が終わった後、極楽浄土に連れて行ってもらい、仏道修行に励み仏様に成ることを願うことです。
いずれも仏様を敬い、その教えを信じ、あるいは、救いを願うことであり、あなた自身がより人としての成長を願い、その為の実践をすることになるのです。
お題目とお念仏は意味が違いますが、相反するものではありませんから、両方お唱えしても何も悪いことはありませんよ。
ただ、日蓮宗のお寺でお念仏をお唱えしたり、浄土宗のお寺でお題目をお唱えしたり、ということは余計な誤解を与える可能性があるので避けた方がよいでしょう。
南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

誠海様
ありがとうございます。表現が難しいですが、二つが違うと存じ上げているので、難しいなと。これからも精進したいと思います。

慶成様
ありがとうございます。
とても参考になりました。と同時に感動しました。「何か得られる」とは、ゆったりとした癒しのようなものを考えていたのですが、根本から間違っていました。
二つが違うのは存じ上げているのですが、ますますお念仏に魅力を感じました。
が、「二つを大切に」は難しいのですね。

三宅様
ありがとうございます。本当に尊いご助言、心より感謝申し上げます。お寺に出向くでもなく、こんなに有り難いお言葉を頂戴できるなんて本当に勿体ないです。
阿弥陀様が祀られているお寺さんにご縁があった時には、素直に感謝して、「南無阿弥陀仏」と唱えさせて頂きたいと思います。
そして仏様に恥じることのない日常を送れるよう、努力したいと思います。
心強いお言葉、誠にありがとうございました。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

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