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愛する家族の死

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27日に8年一緒にいてくれたフェレットが天国に旅立ちました。
もう悲しくて辛いです。

去年の6月から闘病していました。
毎日苦いお薬を頑張って飲んでくれて、ご飯も頑張って食べてくれて、沢山頑張ってくれました。
でも私はその日に限って寝坊してしまいました。

もっと早く起きていれば、異変にも早く気付けたはず…。もっと早く病院に連れて行っていれば助かったかもしれない。
大好きなおやつや柿を食べさせてあげれば良かった。
もっと沢山抱っこをしてあげたかった。
もっと沢山撫でてあげたかった。
もうとにかく後悔しかありません。

私はこの子に沢山助けてもらいました。
この子がいてくれたから、今の私があるんです。
でも私はこの子に何も恩返しが出来ませんでした。
ダメな飼い主でした。

この子に申し訳ない気持ちでいっぱいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

故人との別れは同時に故人との出会いである

看病しながら闘病している姿を見続けるというのは非常に精神的にも大変なものです、それでも貴女は看病し続けた、当日寝坊したからといってそれらが否定されるわけではありません。

かもしれない、あのときこうすれば、今思うと次から次へととめどなく溢れてくることばかりだと思います。

八苦という八つの逃れられない苦しみの中に「愛別離苦」という苦しみがあります。
「愛する者と離れなければならない苦しみ」、ということですが人であれ動物であれ、大事な家族です、愛する家族です、ただやはり動物と暮らしているとだいたいは人が最後を看取ることになると思います。

娑婆で一緒に生きている間にその人に教えてもらうことっていうのは沢山あるけれども亡くなられてから教えてもらうことはそれ以上に多いのではないか。
あのとき言ってたのはこういうことだったんだな、こんなときあの子ならこうするかもしれないな、そうして亡くなってからも教えてもらうことというのはその方からのメッセージなんだと思います。
当然人だけではなく我が子のように愛情を注いだフェレットだって同じだと思っています。

こんなお話しがあります。
あるとき子供を亡くして嘆き悲しんでいる母親にお釈迦様はこのようにおっしゃいました。「もしも貴女が死人を今まで一度も出したことのない家を見つけることが出来たのならば大事な子供を生き返らせてあげましょう」。母親は一所懸命探しました、ですがそんな家はどこにもありません、どこの家も大事な人を亡くしています。それによって母親はそれに気付くことが出来た、と。

我々は皆限りある命を使い切ります。
違うのはそれまでの過程だけです。あなたの大事な家族は闘病中も辛かったと思います、人と同じ言葉を喋ることが出来ませんので伝えたいこともなかなか伝えられなかったこともあると思います。
ですが貴女からの愛情を精一杯受け止めお浄土へ往かれました、その愛情は紛れもない母の愛であり、まごうことなき真実であります。

これからもその子は貴女に色々教えてくれることがあるでしょう、そう感じるたびにその場で伝えてあげてください、空に向かってでも構いません。
あなたのおかげだよ、ありがとう、と。伝えてあげてください。

お浄土での再会を願って
                                       合掌

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おきもち

そこに感じるはずです。これからも一緒に居てあげてください。

死といってもこの世から離れるわけではないですよ。
どこかに行くのでもない。
永遠のピリオドでもないです。
ただ、多くの人がそう思いこんでいることはあると思います。
私も昔そう思っていました。
ですが、関わりのレベルに於いては終わりはありません、不思議なことに。
同級生で18歳、20歳、27歳で亡くなった友人が今も私を励ますことがあります。
それが人間が万物の霊長と言われるゆえんです。
あまり宗教心という言葉は使いたくないのですが、ただの人間から宗教心の開かれた人間になると、深い意味での感性が研ぎ澄まされて、亡くなった人とでも生きながらにかかわっていけるのです。
仏教に於いてのみならず、死は終わりでないと説く人たちも沢山存在しているはずです。
この道理を明らかにするべきです。
死んでから会える、というのも寂しいものです。
ウチにお墓参りに来る人たちは、この世でちゃんと関わり合っています。
終わりというのは人間の物事を眺める見解上のものです。
仏心から眺めると、その人の生は終わっていても関わりは続いているのです。
影響力もあります。死んだ後でも、人が人を突き動かすことだってあります。
眼を開いて頂く為に厳しいことを一言だけ申し上げます。
あなたがその亡くなったその子を「しなせたまま」にしてしまっているのです。
それは人間の世界。
人間の見解の世界から一歩踏み出せば、感覚として今もあなたとの関係が続いているという事が分るはずです。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

温かいお言葉、ありがとうございます。
明日、火葬です。
この子が亡くなってから、お気に入りだったお布団に寝かせて頭を撫でています。
明日以降はそれすらも出来なくなってしまうので更に辛くなります。
私が泣いてばかりいるとこの子が安心して天国に行けなくなるから泣くのを我慢したいのですが、やはり涙が溢れてしまいます。

この子には本当に沢山の幸せをもらいました。
何度ありがとうと言っても足りないくらいに。

これからも沢山ありがとうを言っていこうと思っています。

ありがとうございました。

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