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生きているべきなのか。

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初めて質問します。
私は生きることに疑問を感じます。
生物は呼吸をして酸素を取り入れたり、食事によってエネルギーを取り入れたりすることで生命を維持しています。
私はそこに違和感があります。
海のなかで酸素ボンベをつけているようなイメージで、本来そこにいるべきではないのに無理をしているような感じがします。
本当に生物は生きているべきですか。
もし、息苦しさも空腹もない、苦痛のない楽園のような世界があればいいのにと思うのですが、そんな世界は存在しませんか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「べき」思考を離れてください

「本当に生物は生きているべきですか」
とのご質問ですが、
この「べき」というのは、人が決めた価値観です。人が決める以前に、自然の摂理として、生まれ、生きて死んでいくのです。
生きるためには、おなかがすくので、なにか食べるのです。のどが乾けば水を飲む。これは考えを離れた世界です。

私たちは考えで何かを動かそうとする。考えのとおりにできないものかと右往左往する。
しかし、考え以前の世界を無視しているので、その矛盾に納得できないでいるのです。

人の考えなんて及ばない世界に居るのに考えを重要視するから苦しむ。

目を開ければ、目を向けた世界が入ってくる。見たくなくても、見たくても入ってくる。良いも悪いもなく。それが考え以前。
そこに「べき」なんてものは存在しないのです。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

「息をするのもめんどくせぇ」と口にした僧侶の悲劇

苦痛の無い楽園。
ありますよ、もちろん埼玉に。笑
うちの禅会に来て禅仏教の要諦を会得して頂ければ世界中がごちそう。どこでも楽園です。
お寺の蔵書に世紀末経典「ホケトの拳」とかいう秘経典があります。
その壮大な物語の登場人物にゲイラ様という祖師が出てきます。
アタマも丸めていたので僧侶だと思われるのですが「あ~めんどくせえ!」が口癖でいらっしゃいました。「あ~!歩くのもめんどくせえ。息をするのもめんどくせ~!」と。
これはグータラ学生時代コタツを友としていた私にとって衝撃と共感を与えたセリフでした。
日夜マントラのように「めんどくせー」と念じ、唱えていたため、ゲイラ様の願いは天に届きました。
「息をするのもめんどくさいと言ったな」(-.-)(一>一") 
胸に七つの傷を持つホトケの権化に秘孔を突かれ、ゲイラさま、めでたくその場で即身成仏。
華のように散って逝かれました。「念ずれば花開く」とはまさにこの事。(違ぇよ)
この経典(経典じゃねぇ)が説いていることは、
「人間は住む世界を自分で選択している、自分選択できる」ということです。
悲しいことに、その気になれば死ぬ気になれば死んでしまえるのも人間だからです。
無意識のうちに口にしてたり考えていることが今の自分を形成しているのです。
今、何もやる気が起きないというのも、ご自分の選択でもあるのです。
坐禅会には「あー、一度行こうと思っているんですぅ。」という人がいます。
そういう人に限って「来たためしがない」。実はそれも選択だからです。
「行こうと思っているんですぅ、とか言いつつ、行かないようにしよう。」を選択しているからです。
どんな宗教宗派にも理想郷が説かれているでしょう。
あれは死後の世界の事にではなく、人間が自分の思いのシバラレから自由になった心境のこと。
自分で自分の生き方、心境、姿勢、ライフスタイルを選択できるのです。
めんどくさいでしょうが坐禅しなくていいですから、話だけでも聞きに来てください。
当方もゲイラさまを理想とするめんどくさがり男で寝て暮らすライフを目指してブーデーますます進行中のめんどくさがりです。ですから来なくてもいいです。
いよいよ生きるのもめんどくさくなって、ホトケになりたい時は、坐禅会にお越しください。ウチは坐禅するのもめんどくさいのでメインはお話とトークです。耳だけ貸してください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

かなり期間を開けてしまいましたが、わざわざ回答をくださってありがとうございます。
考える以前の世界、というものについて考えたことがありませんでした。そういう捉え方もあるんですね。
自分の今の状況は自分で選んだものということでしょうか。選択という罪に対する罰と捉えるのか、自分自身がこの状況を望んでいたと考えるべきなのか。どちらにせよ一度行こうかと思ってます。本当に。

お二方とも、貴重な意見ありがとうございました。

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