hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

職場の人に嫌われています

回答数回答 2
有り難し有り難し 54

こんにちは、初めて質問します。
今の職場で勤務して4年になりますが、3年ほど前から職場の先輩に嫌われていると思うのです。
理由は全くわからないので、知らないうちに何か失礼な事をしてしまったのかもしれません。

すぐ上の先輩ですので、仕事の指示や確認などはその方がしてくれます。
仕事に差し障る嫌がらせなどは一切ありませんが、他の人とは雑談をしているのに私には何もなかったり、凄く淡々とした対応をされています。
そういうことがあって割と心は辛いのですが、仕事がとてもできる方で、そこはとても尊敬しておりその方から学ぶべき所も多々ありますし、仕事上必要な時はきちんと指導して下さいます。

もう3年ほどこのような状態ですので、仲良くなるのは諦めています。
何度か仲良くなろうと話しかけたりしましたが、うまくいきませんでした。仕事もあと1年で退職する予定です(先輩とは関係ない、別の理由です)。
ですので、私としては「世の中合わない人だって沢山いるのだから仕方ない、退職まで今のままで過ごそう」と思っておりますが、仏教的な考え方ですと、こういうような場合、どのような心で生きるのが良しとされているのでしょうか。
また、私のこの考え方は間違っているのでしょうか?
どうぞよろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは嫌わなくていい。

明日、現場でその人の顔面を三分間ほど眺めてください。
見れなかったら耳毛でもいいです。
耳毛が無かったら首毛でもいいです。
首毛が無かったら腕毛でもいいですが、顔に近い方が効果的です。
鼻毛でも眉毛でもいいからみましょう。
まつ毛でもいいです。
すると、ある事が分ってきます。
「あ、この人わたしの事を嫌っていると思っていて、それで凄く嫌な思いがしたけど、それって、さっきまで私が思っていたことの中で出てきたこの人を相手にしてたけど、リアルのこの人は、ちっとも大丈夫じゃん」と。
この二つを見極めて現実のその人だけ相手にできるようになればあなたはその人を克服したことになるのです。私は今これを入力中、3歳の娘が足元で飛び跳ねてきますが、時々お腹の上に載ってきたり、膝の上に乗ってきたり、股間の上に載ってきて困るのですが、いつ踏まれるだろうかいつ踏まれるだろうかとハラハラしていても、それは私の妄想だから現実の娘はまだ乗って来ません。
意表を突いて、急に股間にダイブしてきたりでとても痛い思いをする事があります。
ですが、実物をしっかりマークしていると自分の思いの方の娘にはおびえないのです。
それと同じように(何ちゅうたとえじゃ)、あなたの思っている心の中のイヤな先輩と、実物の先輩は別物であると、あした現場で確認してみてください。
一生の力になりますよ。
その人は確かに嫌っているかもしれない。
でもあなたはリアルタイムで、リアルのその人とだけ、現場でだけ接していればいいのです。
その後思い起こされたあなたの中のその人はもうニセモノですから現われなくなります。
仮に現われても、そっちはニセモノだともう知っているから相手にしなくなります。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

それでいいと思いますよ。

こんばんは。
お仕事お疲れさまです。

仏教的な言葉で言いますと、、

仲良くなりたいという欲が満たされない。
求不得苦。(ぐふとっく)

仲良い人との別れがとても辛い。
愛別離苦(愛別離苦)

極端になるとどちらも苦しみになります。
本当は仲良くしたかったと思う後悔の念はあるかもしれませんが、
イツキ様のお考えは悪いものではありませんよ。

個人的なコミュニケーションの件では納得いかない部分があったかもしれませんが、
先輩が大事にされていた仕事をイツキ様も大事にしていたという点では、一致していたのではないでしょうか。

合わないばかりの4年間でなかったと私は思うのですが、いかがでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

泰庵さま
ご回答ありがとうございます。
求不得苦、その通りだと思いました。
先輩と仲良くできる他の人が羨ましくて、仲が良くない自分が悔しくて、辛いんだと思います。
今は、少しでも先輩の仕事の上手さを盗もうと必死です。難しいですよね、人間って。
忘れてしまったけど、多分合うところもいくつかあったと思うのです。だってそうじゃないと今も先輩に食らいついていこうなんて思わないと思うんです。
泰庵さまの優しい言葉でとても癒されました。辛くなったらまた見に来ますね。

丹下さま
ご回答ありがとうございます。
実を言うと、これを書いているときはまだ先輩に会っていないのです。
明日ついに会いますので見つめてみます。
リアルタイムで、リアルのその人とだけ、現場でだけでいい。その言葉で気が楽になりました。
まだ視界に入れることにも緊張してしまいますが、頑張ってみようと思います。
丹下さまは、どうか娘さんから大事なところを死守してくださいね?笑

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ