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心のはたらきとして-亡き人との出会い直し-
輪廻転生については非常にデリケートな問題であり、「仏教ではこう説かれている」と一概に言うことはできません。
しかし釈尊が「輪廻を説かなかった」「輪廻に触れなかった」ということは言えません。釈尊は「輪廻」を説いていますし、触れています。
では釈尊が「輪廻転生」を認めていたかと言うとこれは文献学的な解釈、信仰的な解釈によって分かれるところとなるかと思います。
一応、私の解釈としては釈尊が輪廻転生を説いたのは在家信者対象であり、その本意は輪廻転生がメインではなく、勧善懲悪(善を勧め悪をつつしむことをすすめる意)にあった。(方便の教え)
出家者に対してはあくまでも「無記」(その問題には介入しない態度)を貫いた、というものです。(勝義[本来]の教え)
あなたの前回の質問「ご先祖様の居場所」において、お坊さん方が様々に説いてくださっていますね。おおむねの共通項としては「心の問題」ということだと思います。
それは「どこかに死後世界が実体的に存在し、その世界に死者がなんらかの実体的な形として存在し、その方たちとはあなたの心を通じて交流できる」という意味ではありません。
全てはあなたの「心のはたらき」においてあなたの主観的にご先祖様・亡き人を感じられるということです。
もちろん心も実体的なものではありません。様々な縁(状況・環境)から影響を受けるものです。仏教もその一つです。
仏教ではこのように説かれているのだなとあなたが信仰するところに、あなたの心のはたらきとして大事なご先祖様・亡き人との出会い直しが感ぜられるということです。
「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。」
というあるお坊さんの言葉があります。あくまでも花びらは散るのです。形は滅びるのです。でもそれで終わりではありません。
あなたの心に、存在に、はたらきかけるものとして出会い直しをさせていただける教えがあるのです。
普回向
アクア様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
もし輪廻にある存在であれば、どのような生まれ変わりであろうが、行き来してようがしていまいが、やはり迷い苦しみの中にいることは大して変わらないものとなってしまっております。
ただ、しかるべくご仏縁を頂いて、確かなる仏道を歩む者であれば、多少の紆余曲折はあれども、仏陀・如来のご指導の下、悟りへと向かう道を歩み進めてゆくことができるところとなります。
どうか、全ての一切衆生、ご先祖様方も、清らかな善き流れの中にありますようにとして功徳、供養に努めて参りたいものでございます。
普回向
「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを。」
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
法覚寺 吉武文法様
回答ありがとうございます。形は滅びても人は死なぬ、納得しました。亡き人との出会い直しなのですね。心の整理がついたような気がします。
岩瀧山 往生院 六萬寺 川口英俊様
回答ありがとうございます。
ご先祖様方も清らかな善き流れの中にありますように、素敵な言葉ですね。ご先祖様の供養につとめたいと思います。