無力感が習慣化してしまう
幾ら頑張っても挑戦しても空回りばかりでもう限界です。
ただ絶望がつのるばかりです。
どうせ無駄だった、ほらやっぱり無駄だった。そんな声が胸に去来して苦しいです。
段々意欲も無くなくなり、言葉も中々出てきません。
長期間打開出来ない状況に置かれ続けると「どうせやっても無駄だ」という事を学習してしまいその状況から抜け出そうと意欲出来なくなる学習性無力感という現象が生物にはしばしば起こるそうですが、自分も同じなのかなと感じています。
或いは生ある存在は等しく衰えや死を受け入れなければならないのだから、一定の無力感の学習は当たり前なのかも知れませんが・・・けれどそうやって済ましてしまう習慣を付けた時点で既に無力感の術中に陥っている様な気もしなくは有りませんし、意欲的に過ごせている方も居る以上、無力感を簡単に使い過ぎている気もしています。
色々考え・試したのですがこれ以上思いつかなくなってしまいました。それも自分が弱さだと思いますが何かお考えがあればお聞かせ願えると嬉しいです。
他の方々の貴重な時間を奪ってしまい申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「そうあってほしい在り方=理想」という山からの下山
こんばんは。亀山純史と申します。
あなたが今、具体的にどのようなことに対して無気力になっているかがわかりませんが、次のようなお話をさせてください。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は比叡山での修行を20年間続けられました。しかし、いくら頑張っても悟りに至る道を見出すことは出来なかったのです。この状況は、今のあなたの状況に似ているのではないでしょうか。いくら頑張っても、さっぱり成果が得られない。そのような状況において、親鸞聖人は比叡山を下山します。そして、法然上人の専修念仏の教えに出会うのです。あなたも一度、あなたのことを無気力にしている「理想」の山から下山してみてはどうでしょうか。あなたも述べられているように、「意欲的に過ごせている方も居る」ということは、あなたを無気力にしているのは、目の前にある事実ではなく、目の前にある事実に対するあなたの価値判断なのです。その価値判断のもとになっているもの、それは「そうあってほしい在り方=理想」でしょう。その「理想」から離れてみることです。親鸞聖人が修行された時代においては、比叡山で修行することが理想の在り方だったでしょう。しかし、親鸞聖人はその理想とする在り方から離れることで、法然上人と出会うことが出来たのです。もしも、比叡山を下りなかったならば、法然上人との運命的な出会いはなかったことでしょう。
以上が私からの回答です。私の回答が少しでもお役に立てれば幸いです。
【追記:お礼のお言葉を頂いて】
理想の山を下りるといっても、志までも下す、ということではありません。ですから、迷いながらでいいのです。らせん階段を下りるように、さっき見えた景色に似た景色を何度も見ながら、物事を考えてみてください。勿論その際には、もっとこのハスノハをご利用いただいて構いません。
質問者からのお礼
亀山純史様、多忙を極める中ご助言頂きありがとうございます。こうしてお答えを頂いたのも考えを内に秘めておかずhasunohaに投稿(下山)したお陰なのかも知れないと思い直しています。
ですが自分の怖がりな性格からして完全には下山しきらず戻ったり降りたりしながら迷う様な気がしています。まるで迷いのサイクルに釘か何かで固定されて居るかのように身動きが取れません。
自信は有りませんが具体的行動としては今回の様にもっとhasunohaを利用して構わないという事でしょうか・・・しかし客観的に考えて自分のような性格は「とても面倒臭い」と思いますので自重しなければとの気持ちも湧いています・・・。ありがとうございました。