万人に対する礼儀
世界には色々な人や様々な風習や礼儀作法があります。
お辞儀の角度は何度にするべきだとか、人の頭を触ってはいけないだとか、右手ではなく左手で握手するべきだとか、皇帝の使者を迎える時は五回お辞儀するだとか、諱を呼んではいけないとか、人が死んだら嘆き哀しむとか、人の家の冷蔵庫を開けてはいけないだとか色々もはや無限にあります。
そういった見せかけの部分の礼儀ではなく、心。
万人に対して持つべき心の礼儀を教えてください。
恩人でも仇でも、イスラム教徒でも仏教徒でも、日本人でもジャングルに住むナントカ族でも、今から殺そうとする捕虜でも、嫌いな人でも好きな人でも、自分の奴隷でも家来でも、大聖人でも今から死刑になろうとしている大悪人でも、敵でも味方でも。
万人に対して持つべき礼儀を教えてください。
万人に対してどのような心を持つべきですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おはよう。こんにちは。今晩は。
海外にお住まいであれば、文化の違い、言語の違いに遭遇することも多いでしょう。いろいろと戸惑うことも多いかと思います。
世界にはさまざまな文化と言語がありますが、おそらく挨拶と言う行為と挨拶の言葉はあると思います。「ありがとう」という言葉もそれぞれの文化と言語の中にあると思いますが、「ありがとう」という言葉の背景にはそれぞれの文化の価値観がありますから万人共通とはいかないと思います。表題に書いた「おはよう」「こんちは」「こんばんは」の挨拶は、厳密に分析していくと文化的な差異認められるとは思いますが、万人共通の部分はかなりあると思います。
そして、今述べた挨拶の根底にあるのは、敬意だと思います。人種民族や文化が異なっていても、相手の方に敬意を込め、受け入れる。その意思表示の手段として「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と思います。
ご質問でちょっと気になったのが、「見せかけの部分の礼儀ではなく」という言葉です。風土、人種、民俗、文化、宗教、それぞれが異なれば、異なった礼儀が生じてくると思います。民俗学人類学を少し学んだ経験がある私にとっては、そういう違いに出会うことはすごく面白く楽しいことです。仕事でいろんな地域やいろんな国々を訪問しビジネスとしての結果を求められる方にとって、面白く感じたり楽しんだりする余裕はないかもしれません。でも、「見せかけの部分の礼儀」とは受け留めず、まず敬意を込めてください。それぞれの民族風土文化が長い年月をかけて培ってきたものだと思います。初めから「見せかけの部分の礼儀」という色眼鏡で見てしまうことは慎むべきだと思います。
金子みすずさんの詩の一節に「みんな 違って、みんな いい」という言葉がありますが、こういう心で異文化異言語に接して行った方が良いと思います。
ンなもん無い…という智慧
万人いれば千差万別。「上善は水の如し」という言葉があります。私の好きな言葉です。水は四角い容器に入れれば四角くなり、丸い容器に入れれば丸くなります。そのように「こうすべき」「こうありたい」という自分を捨てれば、どんな相手にも合わせることが出来る…しかし、そういう確たる自己を貫かないのは嫌いだ!という人には通用しないでしょう。結局、無理!
無理なのはお立場上、遠慮さまの方が実感していらっしゃるでしょう。だからこそのご質問だと拝察します。
でも、万人に通用しないから諦めましょうという話ではありません。通用できないから、相手からの非礼を許さざるを得ない。通用できないから、非礼をしてしまった自分を許さざるを得ない。自分を許せるから、自分の未熟を認めて改めることができる。そういうことかなと思うんです。
明日聞かれたらまた違うことを答えるかもしれませんが、まぁそれで良いかなと。昨日の自分が至高ではなかったと許せるからさらに上を目指せるし、自分が変わることを許せるから苦を離れられる。
良いじゃないですか、万人が万人に通用しなくて。それが相手を最大限に尊重することに繋がると、私は思います。
ただ1つ
敬いの心、でしょうか
四修というものの中に恭敬修というものがあります、慎み敬う心です
恭と敬と二重に「うやまう」と入ってるくらい重要なことです
相手がどのような人であっても「うやまうこと」を忘れてはなりません
質問者からのお礼
翔玄様
ご返事ありがとうございます。
敬うとは具体的に言うとどのような気持ちですか?
大慈様
ご返事ありがとうございます。
ないなら仕方ありませんね。
吉田俊英様
ご返事ありがとうございます。