hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

友人との接し方

回答数回答 1
有り難し有り難し 25

初めまして。悩んだときや落ち込んだ時にこちらを拝見し、いつも元気を頂いておりました。今回は自分の悩みを聞いて頂けたら、と思い質問をさせて頂きました。

悩みと言うのが、自分を信用してくれている心からの友人と言う存在がいないのではないかという事です。

私は幼い頃から我儘が過ぎる人間で、気に入らない事があると相手にきつい言葉を言ってしまったり突然黙り込んでしまったりなど…そんな嫌な態度を友人に対して取ることが多かったです。

それでも私のような者とも仲良くしてくれる人はいて、悩みを聞いてくれたり、お祝い事があった時に集まってくれたり、年に何度か会ってくれるような友人はありがたいことに何人かいます。

しかし考えてみると、私は辛い事や悩みがあって相談をするばかりで、友人達の方から私に相談や、辛いことを打ち明けたりしてくれることはありませんでした。

特に仲が良いと私が思っている友人は、私が気づかぬ内に辛い事があったようなのですが、それは他の友人に相談をしていたようで、私には詳しく打ち明けてくれませんでした。

私は助けてもらっていたのに、彼女にはなにもしてやれないのか、とショックでした。そこまで信用されるに至らない振る舞いをしてきた自分の今までの生き様を恥じました。

それからは一方的に友人達に悩みを相談したりするのが申し訳なくなり、控えるようになりました。

皆に好かれたい、皆に悩みを相談してほしい…などどいうおこがましい事は言いません。こんな自分にも連絡をくれる友人がいるだけでありがたいと思っています。しかし、今の状況が酷く孤独に感じてしまいます。

自分含め皆大人になったし、自分の家庭を持てば友人との交流も少なくなっていくし、こんなものなのかな…と思うようにしていますが、悲しい気持ちが消えないです。
どう考えたら楽に考えられて、あまり気にしないようになるでしょうか?

お忙しいところ申し訳ありませんが、ご回答頂けたら嬉しいです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おのれを調えれば自分も人も共(友)になる

友というのは一緒になれること。
よき関わりができることを言うのです。
ウチの住職はカマドウマとも友達になれます。ゴッキーともニワトリともお友達で最近は残ったコメを庭のあちこちに撒いて野鳥と友達になっています。車の上にまで濡れた白米をまき散らす人間というのは私の人生史上たった一人しか知りません。今日も庭の歩道の敷石に濡れた白米がまかれていて私の履物の裏にはコメがびっしりで特殊なスリップ防止効果を発揮しています。
さて、友というのはフレンドリーなこと、あたたかいこと、ほっこりすること、ほんわかすること、敵意の無い事、やさしいことです。
その為に良い方法はあなたが我が無くなることです。
我を無くすのは簡単です。
スマホにもアプリがあるように、人間にも我というアプリがあります。
知らずの内に起動させちゃっているだけです。
その我というアプリは今これをご覧いただいていた時には無くなっていたでしょう。
これから我を無くすんじゃないのです。
もともと我なんてものが無いのです。
そういう時を大事にしましょう。
お友達と会う、何人かと会う時、やたらと意識してしまうことがあるかもしれません。
ですが、人との関わりというものは「会うまでは会わない」のです。
それまで相手にしているものは自分の妄想です。
自分濃度が強いと妄想も色濃くなります。
自分アプリをOFFにできるようになってみませんか。
その為には坐禅や仏道修行がおススメです。
私というアプリが立ち上がる前の静かな自分に出会いましょう。
それがあなたの中の最高の友です。
呼吸している時に呼吸をしているという自覚が無い時があります。
この呼吸は誰がやってくれているのでしょうかね。
あなたの中のあなたにいちばんやさしい存在を意識してみることです。
そうするとあなたは自然に優しい顔になっているはずです。
自分自身の命という存在に優しくできる人はすべての命に優しくできるようになります。
その様に接することであなた自身のわがままちゃんや自分自分しすぎた気持ちも収めることができて友達も沢山増えるでしょう。
みんな誰もが自分が大事なんです。
だからこそ相手の中の自分も大事にしてあげるのです。
そのためにはまず自分の中の本来の自分という友達探しが大切です。
人は、ここに向き合う機会がないと外にばかり宝を求めて自分の中の素晴らしさに気づけないのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。住職様のお話が微笑ましくて、気付いたら笑顔で頂いたお言葉を何度も何度も読ませて頂きました。

考えてみると確かに私は1人で過去を悔やんで悲壮感に浸り、勝手に嫌な事ばかり考えてしまっていました。「会うまでは会わない」この言葉の通り、私が1人で信用されていないと考え苦しんでいたのは友人ではなく「私が作り出したマイナスの像」だったのだなとハッとしました。

ここ数年、考えなくてもいいようなことを考え、勝手に落ち込むという事が多かったように思います。おすすめ頂いたように座禅などして自分と向き合い、気持ちのコントロールをして、少しずつでも変わっていきたいと前向きになれました。

ありがたいお言葉を本当にありがとうございました。誰にも言えずに1人で悩んでいたので、救われた気持ちです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ