釈尊の言行その2
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。
回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。
重要な問題なので、再度質問を立てます。
我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。
「輪廻転生について」のお礼欄で、私は
「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」
との金剛般若経の引用をしています。
輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。
そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。
金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。
釈尊の語りですから、これは真実なのです。
これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか?
因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。
詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
般若心経を盲信しない方が良いかも。
日本の仏教は、大乗仏教を中心とした北伝仏教です。中国・朝鮮経由で日本に伝わってきました。
一方、スリランカ・ミャンマー・タイなどはテーラワーダ仏教(上座部仏教)を中心とした南伝仏教です。
で、輪廻転生については、北伝仏教の経典にも南伝仏教の経典にも出てきます。
ですから、輪廻転生は仏教において基本的な前提だと考えられます。
しかし、般若心経は、南伝仏教にはありません。
般若心経は日本仏教ではかなりメジャーなお経ですが、テーラワーダ仏教には般若心経がないのです。
なので、たとえば、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老(スリランカ人僧侶)は、般若心経に批判的です。
般若心経は、観自在菩薩がサーリプッタ尊者に仏教哲学を語っている形式であり、お釈迦様(ブッダ)が説いていないのです。
菩薩はまだ最高の悟りに達していない存在。むしろ、サーリプッタ尊者の方が、阿羅漢の悟りに達した智慧者です。
般若心経という経典をどう扱ったらよいのかは、微妙な問題だと思います。
如来(ブッダ)の教えを重視するならば、般若心経に頼りすぎない方が良いと思います。
なお、私は、輪廻転生の肯定派です。
追記
なるほど。ブッダが、過去の観自在菩薩時代の話をサーリプッタ尊者に話しているという設定ですか。
どうでしょう?観自在菩薩(観音さま)を釈尊の過去の姿と解釈するのも違和感がありますが。
般若心経の「空」が全てデタラメだとは思いませんが、ブッダの時代から般若経典があったかと言われると、疑問符がつきます。
追記2
無我・無常・苦を別の言い方で「空」と表現できると思いますが、私の勉強不足で、南伝仏教の経典のどこに「空」という表現が出てくるのか、またその重要性はわかりません。
空解脱・無相解脱・無願解脱の三解脱という言葉は南伝仏教にもあり、その場合の空解脱とは、無我を観察して解脱に至る修行のようです。
質問者からのお礼
願誉浄史 様 ご回答を有難うございます。
南伝仏教には般若経もないのでしょうか?
実は私も般若心経と般若経は別物と思っていましたが、般若経の中に含まれているという学者の指摘もありました。(「摩訶般若波羅蜜経」鳩摩羅什訳)
もし南伝仏教に般若経もないとすれば、「空」はどこで語られているのでしょうか?
それと冒頭の「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」
から推測すると、観自在菩薩は般若波羅蜜多時以前の釈尊の称号ではないでしょうか?
釈尊が如来となって度一切苦厄と悟ったのですから、しかもサーリプッタ尊者は釈尊の直弟子ですから、観自在菩薩は菩薩時の釈尊の尊称でなければ、つじつまが合いません。
それに水野弘元先生の「釈尊の生涯」にある濾尽智通とは般若心経の記述そのものです。(世界人生の真理=宇宙生成の真理)
とりあえず、南伝仏教ではどこに「空」が解説されているのでしょうか?
追記します。
願誉浄史様が輪廻転生の肯定派とは心強いですね。
仰るように、「輪廻転生は仏教において基本的な前提」です。
仏教は中心となる神がいないですから、理屈(真理と論理)がすべてです。
一番問題なのは、現代科学が心は身体の一部である脳から派生したものであるという説です。(NHK「臨死体験」 立花隆氏解説)
この世の事象については科学は万能ですが、死後を含むと実証が不可能ですから、仮説の域を出ません。
釈尊は五蘊として、身体と心は分離されています。
しかも過去世を知っていますから、それが真実であることは間違いありません。
身体と心の組成の程度から見て、先ず重さが極端に違います。
身体は複雑な構造をしていて頻繁に故障しますが、それでも70年は生きています。
心の構造はいまだに不明ですが、重さから見てはるかに簡単で死ぬ要素がなく、その寿命は無限に近いと考えられます。
これがバラモン教の輪廻転生なのでしょう。
釈尊は空を発見して、縁起の理法により思いが無くなれば心が死ぬことを導出し、努力すれば涅槃が得られることを会得したのでしょう。
これが仏教の輪廻転生とその離脱です。
死とは身体だけの死であって、通常は心は生き続けます。
願誉浄史様 追記を有難うございます。
同じことかも知れませんが、釈尊とサーリプッタ尊者との説教は二人だけではなく、数人の傍聴者(弟子たち)がいて、その説教を聞いていた傍聴者の一人の話が後世に伝わったのではないでしょうか?
願誉浄史様 追記2 を有難うございます。
ということは、南伝仏教には600巻もの般若経はないのですか?
釈尊の伝記に有名な「梵天勧請」がありますが、あまりにも高度な内容であるために誰も理解できないだろうと布教を諦め涅槃に入った時、梵天が現れて翻意させたとのことです。
600巻もの般若経はその説得の努力の表れではないでしょうか?
般若経の中身の中心が「空」ですから南伝仏教にそれがないとは不思議ですね。
南伝仏教は実践としての「空解脱・無相解脱・無願解脱の三解脱」はあっても、真理と論理としての「空」の説明がないことになりますね。
追記します。
南伝仏教としても、実践に最も重要な解脱の第1に「空解脱」がある事は、空が最重要であることを示していると思います。
「空解脱」が「無余涅槃」で「無相解脱・無願解脱」が「有余涅槃」の事でしょうか?
般若経の99%は「空」の解説に終始していますが、これは真理の一つであって、すべてではありません。
般若心経がすべての真理真実を語っています。
なぜかと言うと「空」とは「色即是空」の空であって、般若心経ではそれと対で「空即是色」の色が示されています。
その両者は文法的に同格であって、空が真実であれば色も真実です。
しかし般若経は「空」一色で「色」に関しての解説がないので、「色」は完全に無視され、「色」は「空」の錯覚と断定されました。(NHK100分で名著「般若心経」)
(追記2へ続きます。)
追記2です。
釈尊は「ありのままに」と語っているのに、民度の高い国民は自分の都合の良いように翻訳し、輪廻転生まで「刹那滅」と意訳し、死後は無いと変更しました。
原因は釈尊の話術の特徴を把握してい無いからです。
経の多くは、釈尊と弟子の対話です。
そこでは常識は一切語られません。非常識には手を変え品を変え熱心に語ります。
「空即是色」は現実の姿ですから常識です。唯一「諸行無常」が語られています。
輪廻転生は当時のインド社会では常識です。
従って弟子にはそれを語る必要が無いのです。
従ってそれに関連する会話を見つけるのが困難です。
民度の低い国では盲目的に信じています。それがかえって正しい理解につながるのです。
南伝仏教は般若経がなかったのが幸いして、輪廻転生を肯定できるのでしょう。