複数の女性が好きなことはなぜ悪なのか?
お釈迦様はたしか何人も妻がいたそうですが、複数の女性を愛することは仏教的にどう考えられていますか?仏教の教えでも悪なのですか?
日本では複数の女性を愛することは大悪とみなされていますが
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
騙すこと、裏切ることが悪
お釈迦様の妻は一人です、と、パーリ語の仏典には記されています。漢訳仏典もほとんどすべてそうだと思います。「妻が何人もいた」という情報は、たぶん間違いです。
古代インドの王様や日本など他の国でもたくさんの妻を持つ人はかつていました。今はキリスト教の一夫一婦制が広がって、辺地の国でなければどこでもほとんど一夫一婦制です。
それはともかく、複数の女性を同時に妻にすることは、仏典の時代では問題ありませんでした。しかし、不倫はダメです。
複数の女性を同時に妻にすることは、女性側も承知しています。不倫は、妻であれ、未婚の二股であれ、もう一人が承知していません。知りません。隠されています。
仏教では、相手に必要な事実を隠すこと、騙すこと、こういうことが信頼を損なう最悪の罪・裏切りだと考えていて、そこが問題なのです。たくさんの妻と不倫の決定的な違いなのです。
ちょっと考えればわかりますが、自分がやる分にはよくても、自分が相手に隠されている、騙されているとなったら、もう、相手のことを信用できません。それが、実は大きな罪なのです。
「悪」
こんにちは、初めまして。
この問いは、あなたの人生上の煩悶から発せられた問いなのか、教養的に知りたいということなのかは分かりませんが、一先ずお答えしましょう。
「お釈迦様はたしか何人も妻がいたそう」とあります。
まず、出家前のゴータマ・シッダールタは、王族であったため側室がおられたという説もある(マノーダラー『仏本行集経』、ゴーパー『修行本起経』)ようですが、正妻はヤショーダラ妃お一人だけです。出家後に、妻を娶ってはいません。そもそも出家とは、世俗的な家族関係を置いていくことですから。
「複数の女性を愛する」ことが「悪」なのか、と問われています。
そもそも、仏教的な悪とは、平たく言うとさとりを得る(成仏する)方向性の善とは反対の方向性を持った言動や心を言います。この意味で言えば、「複数の女性」に限らず、一人の女性に対しても執着を深めていけば行くほどそれは悪の可能性があります。
つまり、愛欲に限らず、日常の心、言動等にある煩悩を無反省で肯定していくこと全般が悪なのです。
大まかに言えば、この悪を断じて善を積むことを目指す日本の宗派があります。
また、私の浄土真宗のように、仏様の智慧によって自らの悪を顧みつつ善(念仏)を最上の行いとして生きるという宗派もあります。
簡単には、このような説明かと思います。
ご自身の思っておられたことと、説明を聞かれたその差に何を感じるかお聞かせいただけたら嬉しいです。
では。
愛する女性が、他の男と付き合っていても平気ですか?
一夫多妻制・一妻多夫制の社会なら
誰も文句は無いでしょうが
日本ではそうではないので大悪とみなされます。
仏教の戒律に
「不邪淫」が入っているのも
その行為が苦を生むからです。
仏教の教義からはどうともいえない。
先に回答された。2師の答えが尊くて、私などが回答できるものではないのですが、私は、お釈迦様の妻は一人と認識しています。
また、一夫多妻を正式に認めているのはイスラム教だけです。日本ではかつて、側室というシステムがあり、お妾さんや二号さんと呼ばれる存在もありました。
それも正妻が認めていればの話なんだったと思います。
一般的な仏教的に言えば、愛すら渇愛と呼び否定されます。恋愛という概念は日本においては、明治時代以降キリスト教の愛を輸入して作られたものです。
そもそも、一人の人を愛するとか永遠の愛などないと仏教的に言ってしまうこともできるとは言えましょうか?
質問者からのお礼
色々な回答がついたので混乱しましたが、よくよく読んで見ると回答に共通することは仏教的には複数の女性を愛すること自体は問題ではなく、執着したり騙すことが良くない行為ということのようですね。女性が嫉妬して可愛そうだから悪いといった理由だと思っていましたが、仏教的には女性が嫉妬するのも執着するという悪なんでしょうねきっと。仏教の物の見方は大きくて面白いですね。
ありがとうございます。