過去の自分への自己嫌悪と後悔に苛まれます
自分の過去の行いをとても後悔し、毎日自己嫌悪に苛まれています。
私は小学生の頃、描いた絵を投稿し、コメントなどで他のユーザーと交流できるとあるネットサービスを利用し、そこで絵を描いて投稿していました。
自分で一から描いた絵も投稿していましたが、幼く道徳観の出来ていない私は他の絵の上手な人のイラストをトレスし、自分で描いたかのように投稿するということを度々行っていました。
人の努力を大いに踏みにじる行為だったと思いますし、元の絵を描いた人をとても傷つけていたと思います。実際元の絵を描いた人から怒りのコメントを頂いたこともありました。
成長した今、自分はなんてことをしていたのかと深く反省し、そのような行為をしていたことをとても後悔しています。
ここ最近は特にその時のことが頭を回り、常に苦しい思いがします。
そのネットサービスは数年前にサービスを終了したので、当時傷つけてしまった方々と連絡をとることはできません。
私はどうしたらよいのでしょうか。傷つけた方々のためにできることはないのでしょうか。一生このことを抱えて苦しむしかないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それは誰のために
ご相談拝読しました。
どうしてあんなことしてしまったのだろう?ということがありますね。私もそうですよ。
すずさんはよく考えていて素晴らしいですね。それはとても大事な事です。
>傷つけた方々のためにできること
って何でしょうね?それは本当に相手が望んでいることでしょうか?本当は誰の為でしょうか?自分が逆の立場ならどうして欲しいでしょうか?何かしてほしいものでしょうか?
やっぱり私たちはとてつもない苦しみを前にすると自分が楽になりたいという気持ちがあると思います。
なかったことにしたい、あるいは許されたい。
前者はかないませんし、後者は相手があることですからどうなるかはわかりません。そしてすずさんは相手に何かすることはもう難しい状況にあるのですね。
人生の先輩として申し上げれば、あるいは仏教の視点から見れば、
>一生このことを抱えて苦しむ
ことすらできないのが私たちです。何一つ徹底できないのですね。どんな気持ちですら変わっていってしまう。しかしそれは救いでもあるのですが…。
だからこそ、この今の気持ちが変わってしまったとしても、この事実は変わらずに受け止めていく必要があるのではないでしょうか。
一生苦しむのでなく、一生このことから自分が問われてくる。してはいけないことをしてしまったという事実から自分の今が問われてくる。
すずさんがその事実を受け止めて生きていく他はないと思います。もちろん奇跡的に相手の方と話す機会が得られたのなら謝ることも大事でしょう。あるいはその道で有名になったとしたら自分は昔こういう事をしてしまったと告白することも大事かもしれません。しかしそのどれもが相手の為であるとは限りません。
ですが、私たちはそう強くはありません。時には事実を受け止めることができず顔を背けたくなることもあるでしょう。
仏様はどんな人をも救います。誰のどんな罪をも障りとせず救います。それは罪をなかったことにするのではなありません。罪の重きことを知らせ、それでもその私を救うというのです。
仏教の救いは罪をなかったことにするものでなく、罪を背負い・向き合う勇気をくれるものです。
仏様の教えはすずさんを見捨てません。すずさんもすずさん自身を見捨てずにこのことを受け止めていってください。
質問者からのお礼
丁寧なご回答、ありがとうございました。頂いたご回答も踏まえて、じっくりこのことについて考えることが出来ました。この先このことをどう思うかはまだわかりませんが、いつも自分のした事を忘れず、受け止めていきたいと思います。