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個性を磨く。

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お久振りです。いつもお世話になっております。ユーリです。
今回は、個性を磨くということについて質問いたします。

教育現場では、良く「個性を磨く」といった文言が使われ、「生きる力」と共に、二大教育用語になりつつあると、私は考えております。

さて、個性というと、広義にはその人の特性・性質ですが、それを磨くというと、どういった意味なのでしょうか?
私個人の見解を述べますと、やはり、短所のない人間はいないわけで、また、自分と同じ人間もまたいないわけであります。
自分を追及し(今頑張っています。)、自分をより深めることで、自分にしか出せない味を出す。それによって、噛めば噛むほど味が出てくる。噛めば噛む程、噛んだ傍から味が出るような。そんな人間を目指すのが、「個性を伸ばす」だと感じてならないわけであります。

私は、部活の野球はベンチ外。勉強は、論外の外。顔は、圏外の外。
喋らせたら、うるさいとよく言われ…。そんな人間です。
ですが、人に誇れるものというととくにありませんが、この喋りというのは、自分の中で好きな部分ではあります。
アホなこと言って、「自分ってあほやなー」と、振り替えってにやにやしてしまう。そんな自分が大好きです。
元々、芸人になりたい私ですから、そう感じるのかもしれません。
「よく喋る・デブ・ちび・くそメガネ・頭悪い・送りバントが得意」これが私の個性です。

ですが、「よくしゃべるなー・・・」と周りに言われるということから、それを不快に思う人もいるかもしれないわけです。
自分は誇らしく思っても、そんな一面を磨いてどうするのかと思うわけです。
「個性」には、対個人、対社会にプラスのもの、マイナスなものがあるわけで。
マイナスなものだとしても、それを伸ばせ、ってことなんでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子供は育てるのでなく育つ 生徒は教えるのではなく…

愛知県の足助の香積寺に風外本高という名僧が居ました。
風外禅師の門下に立派な和尚さんが三人育ちました。
奕堂、鼎山、坦山という三人の和尚でした。
奕堂和尚は、坐禅を熱心になさる方でした。奕堂和尚には「お前は坐禅熱心じゃ。宗門は坐禅こそ最も大切な仏道の究極じゃ。座蒲はこういうのを使うが良い、坐禅の時のこころのありようこのようにするが良い」と懇切丁寧に指導されました。
書物を熱心に読んでおられた鼎山和尚には「お前は勉強熱心じゃ。こういう本がある、読んでみなさい。難解な仏の教えを噛み砕いてわかりやすく衆生に広めるよう努めなさい」
豪快で喧嘩っ早い坦山には「お前はなかなか豪快な奴じゃ、宗門にはお前のような豪傑が必要じゃ。正しいと思ったことはとことん追求しなさい」と、それぞれの僧侶の一見、非と思われるような面も安易に否定せずにほめたたえていたといいます。
トマトの苗は天敵を除外すると、1万もの果実がなるそうです。
お釈迦様も対機説法と言われるように相手に応じた説法をされたように、風外本高禅師は、相手の器量、素質をよく観て、相手の好むことをのびのびと更に花咲くように後押しされていたという事が記録にのこされています。
これは現代では名プロデューサー的な在り方のようではありますが、プロデューサーや編曲者が余計な手を加え、権利を自分のものにしようとするガメツい姿勢とは一線を引く在り方です。
大人の勝手な判断で、これはイカン、あれなら良いという押しつけがましさが無いのです。
奕堂禅師は曹洞宗の大本山総持寺の独住第一世禅師となられ、その門下僧は千人を超えるほどの名僧です。鼎山禅師は説法・法話に大変長けた名僧です。原坦山は東京大学印度哲学化の初代の講師です。
彼らを育て上げたのは、風外本高禅師が門下僧を盆栽を育てるような育て方をしなったからなのです。風外は今の親、教師のようにでしゃばりではなかった。主役はあくまで自分ではなく、教わるがわだったのです。
日本の教育はみな生徒を盆栽を育てるようにチョキチョキと個性の枝を教師が切り落としてしまいがちです。それは教師の都合に他なりません。
ほとんどの大人や教師が、教える、ということを誤解されているからです。
もしあなたがこういう先生にならっていたら私はもっと伸びていたであろう先生をあなたがなされれば生徒さんにとってこんな幸せなことはありません。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

プラスになるように

ゆーりさん。なごみ庵の浦上です。

個性。よく聞く言葉ですが、私はこの言葉に疑問符がついてしまいます
たとえば「ウソばっかり言って、人のものを盗んでしまう」のも「なんでも暴力で解決しようとする」のも個性です。
でもこういう人を「個性的」とは言いません。一般的には社会のルールを逸脱せず、社会に対してプラスになる特性を「個性」と言っているように思います。ですので、あきらかにマイナスな特性を伸ばすのは、社会生活を送る上ではお勧めできません。

ゆーりさんは「野球はベンチ外、勉強は論外の外」と仰っていますが、それでも努力し続ける、という姿勢は好ましい個性だと思います。

また「よくしゃべる」は、良い面にも悪い面にも成り得ると思います。よくしゃべる人の代表は明石家さんまさんかと思いますが、見ていると何も考えずにしゃべり続けているわけではないですね。状況を把握して、いろいろな話題を拾い、笑いを生み出す方向に繋げているように見えます。単に「よくしゃべる人」なだけではないのです。

これが、状況も読まない、人の気持ちにも配慮しない、ただただ自分の話したいように話すだけだと、迷惑な人になってしまします。
「よくしゃべる」ことをプラスとして生かせるように他の面を含めて伸ばしていくのが、ゆーりさんの「個性磨き」ではないでしょうか。

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おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

ゆーりさんはザキヤマみたいですね。

 ゆーりさんの発言を見ていると、アンタッチャブルの山崎(ザキヤマ)に似てますね。
①高校時代野球部で補欠
②ガヤ芸人と言われ、よく喋るし、うるさい。
③クイズ番組に出ても、解答率が悪い。
あなたにそっくり。良い性格ですね。中々憎まれないかもね。
 ただ、個性もメリハリが大切で、芸能人なら許されることも仕事をするようになったら、その性格が裏目に出ることも多いかもしれません。学生の時はこのままでいいかもしれませんが、社会人はそうはいきません。その性格をとことんまで貫き通すのは色々な不具合が生じますが、それでも続けられますか。そこは良く考えてください。
 世の中、個性とは意味が違う方向に使われているようです。私が修行していたころは皆朝同じ時間に起きて、同じだけ坐禅して、同じものを食べていましたが、考え方や物の見方は人それぞれでしたし、皆進む道が違いました。これを個性というのではないでしょうか。すべて違うのは自分勝手、自己満足ではないでしょうか。さあ皆で考えようー。

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目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

「縁起」の理解

ゆーり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

個性重視、人間力向上、自己責任、自己決定・・

個々人の個性や能力、責任、決定が重視される傾向は、確かにここ数十年続いており、ある種のプロパガンダ的な意図があるようにも思われます。

もちろん、良い悪いは別として、自由主義の時代、個々人の自由が尊重されることも長らくある中ですので、当然と言えば当然でございます。

但し、自由は責任を伴ってのことゆえに、何でもかんでも自由にして許されるというわけではありません。もちろん、義務、やるべきこともきっちりとしておいての自由が大切となります。個性も同じであり、責任が伴って成り立つものではないかとは存じております。

さて、仏教的にはどう考えるべきかですが、この世界は「縁」により成り立っている、「縁起」なる中で私たちも存在することができております。

この生かされてある自分のありようをしっかりと鑑みて、自分を成り立たしめている無数の「縁」への感謝、有り難さを思うことで、思い遣りや気遣い、配慮、報恩を養っていくことが求められるものとなります。

「個性」の重視が、ややもすると自我の強調に繋がって、自分至上主義、自己都合・自己満足主義、独善主義へと陥っての弊害が生じてしまう可能性があり、これでは、迷い苦しむだけとなってしまいかねません。

どんなに優れた個性、個人能力があっても、それを発揮して使える立場、環境、応援・評価してくれる人などがいなければ、全く意味の成さないものとなります。例えば、どんなにサッカーのシュート力に優れていたとしても、サッカーの無い時代であれば全く意味が無いですし、現代のようにサッカー競技があっても、チームに所属せずに、観客も選手も誰もいないところで、いくら素晴らしい豪快なロングシュートを決めれても、所詮はただの自己満足・独り善がりで終わってしまうということとなってしまいます。

対人、対地域、対社会、対国家、対国際・・無数の「縁起」によってある自分の存在に感謝した上にて、その中でそれぞれの個性も活かすことができるのであって、「縁起」を無視しては、成り立たないものであるということを理解することがまず大切になるのではないかと存じております。

川口英俊 合掌

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