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人への不信感

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私は行動に移すことが苦手でいつも尻込みして結局何もしないということが多いのですが、どうもそれは根本的に私の心に人への不信感があるからではないかと思うようになりました。

例えば、今新しい職場で仕事をしていても、上司や経営者の事が今ひとつ信じられず、この会社もすぐ潰れるんじゃないだろうか、今はいい人でも売上が落ちてきたら人が変わったようにパワハラ上司になるのではないだろうかとか、今カウンセリングに通い始めたのですが、中年女性のカウンセラーはただ私の話を困ったような顔で聞くだけ、2回通ってもずっともやもやしており、このままカウンセリング受けても時間の無駄なのでは?と思い、他をネットで調べまくってはみたものの、どこも高額な料金だけ取って怪しいところなのではと思ってしまいます。

不信感をかかえたままの人づきあいは疲れますし、何事にも半信半疑のままでは身が入りません。
どうしたら人を信じられるようになるでしょうか。
心の持ちようをアドバイスください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつも「何かしないといけない」と思っている焦り💦

人間元来パーフェクト。
私のように不健康でブサイクで顔も鼻も性格も曲がっている( ゚Д。)ひでぶ系でも大丈夫。それはそれでパーフェクトなのです。
ところが、今の時代どこのラーメン屋で何にでもすぐに味〇素を入れるかの・よ・う・に、いつでもどこでもなんにでも「何か付け足そう」としている気配を何となく感じませんか?
その「何か付け足そう」という人間のいやらしいまでのオマケ思考・オプション思考って、あっちゃこっちゃ猛威を振るっています。プリクラでも目がデメキン加工され、CMはCGばっかりウソばっかりの実物以上。それ以上に盛る盛る。現物激ショボ。全部が「そのまんまじゃダメ思想」なんじゃないでしょうか。
CMを見ているだけでいかに世の中の人たちを恐怖に陥れているかがよくわかります。
いつも通りであると体臭が気になるようにさせる香料系商品のススメ。そんな人の体臭嗅ぎにいかないでしょってばヨ。
可愛くなくちゃいけない、痩せてなくちゃいけない、だからダイエット・ビューティーのススメ。必要なし。あおられちゃダメ。
勉強しなくちゃいけない、イイところに入らなきゃいけないのススメ。そこそこで十分。
料理も食品も添加物、農薬、肥料、加工、抗生物質、ワクチンもアレ混入これ混入。
人と接するにもやれマナーだ作法だ、知らないと恥をかくだ「(# ゚Д゚)しらんがな」。
それで結構。

もう一度。人間元来パーフェクト。
その姿勢を持つことです。
どうして、アタシ自身に化学調味料かけちゃうわけ?
どうして、味〇素やファブリ〇ズで別物にしようとするわけよ!とキレる勢いで、自分のまんまのそのまんまの天然素材のままでいてみることです。
人への不信感をぬぐうにも、あなたがあなたのまんまのそのまんまでいることって大事です。他人からの否定やNG、ダメ出しをおそれて自分本来の輝き、安らかさ、あたたかさ、ほっこりさをうしなってはいけませーん。
むしろ職場の人たちの方が何かにとりつかれて「誰かモードかまされている場合」が多いものです。
ああ、可哀そうに。そういうものなんだ。そうやって染まっていっちゃうんだ、という「あえて私そこに所属しねーぞ」的な姿勢は大事です。出家の精神にも通じます。
みんな世の中同調圧力でおんなじカラーにされられちゃうところがある。
いいんでっすば、食べなくたって。エホーマキ。そういう感じでOKかと。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

こんばんは。
2年も前のお礼を今させていただくことお許しください。
今、自分の投稿を改めて全て読み返しました。
丹下様のご回答、思わずクスッと笑ってしまいました。しかしその中にもそうだよなと納得できる事ばかり。
なぜ2年前にお礼を書かなかったのか、理由は忘れてしまい申し訳ないのですが、良いお言葉は何年経っても響くのですね。
ご回答本当にありがとうございました。

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