「もし、あの時…」という思い
前回、「24年前の事件の記憶」で投稿させていただきました。
あの時、私の隣にいた方のことが頭から離れません。
すごく苦しそうだったので、「大丈夫ですか?私につかまってください」と言って、その方の腕を私の肩に回して、一緒に外に出ようと思いました。
私の記憶はそこで途切れています。
記憶が戻ったのは2日後の病院のベッドの上です。
警察の方から、その方は亡くなられたと聞きました。
私と肩を組んでいる状態で倒れていたので、知り合いだと思ったようで知らせてくれました。
私は、その方を連れて駅構内から外に出るつもりだったのに、ホームで倒れてしまったようです。
私は生き残り、その方は亡くなられた。
もしあの時、私が声をかけなければ、その方は這ってでも外に出ることができたのではないか?
もしあの時、私があと数歩でも歩けていれば、少しは電車から離れられていて、その方が亡くなることはなかったのではないか?
何を考えても過去に戻ることはできないと分かっているのですが、「もしあの時…」という思いを消すことができません。
私は、この気持ちとどう向き合っていけばよいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「もし」の結果は無数にあるんですよ。
過去の質問も含めて読ませていただきました。
本当に辛い体験をされたんですね。身体や心の傷を負われたかもしれませんが、それを受け入れながら周りへの感謝も忘れずに前を向き進む姿、本当に頭が下がる思いです。
ただ、中田師もおっしゃっておられるように、本当に辛いときは無理せずに吐きだして下さいね。距離が近くて関係の深い人々にはなかなか言いにくいことでも、距離のある人には意外にすんなり吐き出せた、なんてこともよくありますよ!
さて、「もしあの時・・・」と今でもフラッシュバックしてしまうのですね。
りぃなさんのように辛い体験を私は経験したことがありませんので、なかなか私の言葉は響かないかもしれません。しかし、一般論として少しでもお聞きいただければありがたく思います。
「もし」の結果とは無数に考えられます。おっしゃるように、もしあの時違う行動をしていたら、ひょっとしたら違う結果が生まれたかもしれません。しかしその違う結果というのは、必ずしも良い方に違うとは限りません。ひょっとしたらもっと悪い方に違う結果を生じた可能性だって十分にあるのです。
ですので、「もしあの時・・・」と考えるのは無数の可能性の中から、自分にとって心地よい選択肢を選んで妄想しているに過ぎないのです。
しかし、現実はすでに実際におこっています。りぃなさんにおこった事実は変える事は出来ません。
ただ、真実はりぃなさんが思っていることとは異なるかもしれません。
その亡くなられた方から見た場合、すごく苦しい中でも手を差し伸べて下さったりぃなさんは仏様のように見えたかもしれません。
また、自分が亡くなるかもしれないときに傍に人が居てくれるというのは、それだけで少し心が救われるでしょう。だれしも独りぼっちで亡くなるのは辛く寂しいことですから。
このように、その方の命を救えなかったかもしれませんが、その方の心を少しだけでも救うことができたのではないでしょうか。きっと、亡くなられた方はりぃなさんに感謝されておられますよ。
りぃなさんは、その時にできる精一杯をされました。その行いは亡くなられた方だけではなく、周りの方の心も色んな意味で救われたことでしょう。
思い出さなくなることはないかもしれませんが、自分の行いに自信を持っていただければありがたいなと心から願っております。
質問者からのお礼
藤川誠海さま
ご回答ありがとうございます。
腑に落ちました。
「もし」の結果が無数にあるなんて、今まで考えもしませんでした。
確かに、私にとって都合のよい「もしあの時」を思っていただけにすぎません。
「助けてあげることができなかった」という罪悪感にも似た気持ちに苛まれていたので、私の思う「もしあの時」は、そのような選択肢になったのだと思います。
そして、
「りぃなさんのように辛い体験を私は経験したことがありませんので」と書かれていますが、
「辛い体験」に、大・小・強・弱などないはずなので、私のことを思ってこのような言葉を選んでくださった藤川さまのお心遣いには感謝しております。
その亡くなられた方がどのように感じたかは分かりませんが、
どのような状況でも、「人として当たり前のことを、当たり前にできる」ような人間でいたいと思います。
ありがとうございました。