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【プロフィール参照】お経をあげる意味について

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最近、疑問に思っていることがあり各ご僧侶様のご意見を頂きたく質問させて頂きました。

まだ小学校低学年の頃から、30年以上前に亡くなった曾祖父に会いたがったり、誰に教わるでもなく仏像をねんどで作ったり絵に描き起こしたり何かと仏教とご縁のある身なのだなとありがたく思っております。

大学でも仏教学部に在籍していたこともあり学問的な仏教にも大変興味があります。

この1か月間で無量寿経、薬師経、阿弥陀経、般若心経等、10以上の真言、経典を読んでいました。

釈尊の言葉をまとめたものがお経なのであれば、なぜ葬式や法事であげるか少し理解できずにおります。教えを書き起こしたもの(学校でたとえるならば教科書でしょうか)を故人にあげる意味とはどういうことなのでしょうか?
ある本には六道の中で人間界でしか仏教を聞く事ができないと書いてありました。
人の思う天国も六道では天界というところだそうですが、苦しみもあるとのことでした。
葬式や法事等であげるお経は人間界でしか学べぬ仏教を、故人にもその教えをお経として聞かせ参列している人もまた教えを一緒に聞く、という意味合いなのかなと解釈しております。。

菩薩や天部のエピソードは多少脚色されたものもあるのかもしれないなと物語として楽しく学んでおります。
また各浄土にいらっしゃる仏様それぞれが得意とする分野をお持ちですが(薬師如来なら無病息災や病気治癒など)、病気になった時はお薬師様、強い心を持ちたい時はお不動様などそれぞれの仏様に拝んでもよいのでしょうか?
全ての仏様のお師匠様が阿弥陀様ということを本で見かけましたので基本的に元をたどれば一つであると考えればどの仏様にお祈りをしてもよいのかなと、、

仏様のご利益は願って叶うものではなく、願ったのち自身が前を向き努力した時にそっと後押しをしてくれる存在と最近は思います。

ご僧侶様のご回答ご意見を、宗派関係なくお聞かせください。
※曾祖父時代は浄土真宗、現在は真言宗ですが私自身はどの宗派も元をたどればおおかた同じと思っておりますので気に入った仏様や宗派を勉強しているようなかたちです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

願いは勤行即聞法であるから読経と法話がセットが基本

疑問はごもっとものことと思います。私自身もまだきちんと分かっていませんのでもし分かれば教えてくださいね。

さて、引用が長くなりますが、例えば

仏説無量寿経
「たとい大火ありて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞きて、歓喜信楽し、受持読誦し、説のごとく修行すべし。所以は何ん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲えども得ること能わず。もし衆生ありてこの経を聞けば、無上道において終に退転せず。このゆえに応当に専心に信受し持誦し説行すべし。」

仏説観無量寿経
「「上品上生」というは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、当に往生を得べし。何等をか三つとする。一つには慈心にして殺せず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。」

というように大乗経典における仏説ではありますが、経典の読誦は仏に勧められているものではあります。
しかしこれは葬儀や法事でということでは確かにありませんね。ここでは自らの修行や、生きているものが聞くものとして経典の読誦が勧められています。

この考えがどこかで「回向」の思想と結びつき、そして追善供養として展開されていったのだと思います。

なお、浄土真宗の供養は追善ではなく讃嘆供養ですので、経典の読誦も仏徳讃嘆として見出されていると思います。つまり仏様の教え、はたらきを葬儀や法事の場でも褒め称えているのですね。
ここには亡き人を私たちにとっての諸仏として見出すという考えがあると思います。亡き人から私たちが仏の教えに遇う機会(読経)をいただいたとい捉え方です。

ではなぜ漢文のままで読むの?ということになると儀式という側面がやはり強いのだと思います。
亡き人を前にした私たちの気持ちは「娑婆の言葉では言い表せない」という思いを「漢文での読経」に託しているのかもしれません。和訳にしてしまうことで自己の思いの範囲に押しとどめてしまうという危険性を回避しているのでしょうか。しかしこの点は要検討ですね。

善導の『法事讃』などを読めば理解が深まると思うのですが恥ずかしながらまだ読めていないのです。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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あらゆる苦から救われるこの上ない最上のものを供養している

お供えや供養の中の最上のものはその人だけではなく、縁者、周りの人、世界中の人が幸せになれるものを供養するのが最高でしょう。
私たちがそういう心になることが最高の報恩の供養という事です。
現代僧の中にはただカラ読経している人も多いと思います。
カタチだけで心が無いと物真似になる。
読経をするからには読経をする者もお経の内容である法・仏法・悟りの中身が明らかになっていなければ私は詐欺だと思っております。読経の導く先も導師と名乗る人間なのに導き先も分からず、ただオウムの物真似のように唱えているのであれば供養にはならんでしょう。誰でもいいやという事になるからです。
昨今のビジネス化された法事・読経サービスのようなものはそういう意味ではほとんどの人間が上記のような導き先の無いカラ読経でしょう。
知らん人はそれでいい。知らぬが仏。
ですが、本当に求める人にはそれは失礼というもの。
そもそもお経の原点はお釈迦さまの説法。
人間が悟りを開ける方法、内容が文言になったものです。
小僧さんや学生僧侶、在家の勤行であればまずは形から入るものです。
ですが、海外から見てみたら不思議な光景が展開されていると思いませんか。
日本にも海外から仏教を学びに来くる人がいます。
そういう方々が母国に帰って日本語で本人も意味の分からない読経をしていたら違和感を覚えるはずです。実際、海外の読経のテープを聞いた時私は違和感を覚えました。
日本語もよくわかっていない外国僧が
(; ゚Д゚)「アオギコイネガワクワサンボーフシテショーカンノタレタマエ」とか唱えたって、本人たちは何をやっているかもワカランのですから。
人間として最高の心・法を亡き人にめぐらし向ける。共有する。最高の心を世界に発信する。
無上の菩提を得られる具体的な内容が説かれた「お経」を法を明らかにされた人=導師を招いて供養する。=そこで活きた仏法が説かれて、多くの人が救われる教え(法=経)が広められるという事です。故人様は「私は先に逝きますが、私(施主)の尊敬する導師様の教えをよく学び、生きながらに共に生老病死苦・四苦八苦から救われる心・菩提を求めましょう。」という仏教的な方向性がちゃんと示されているのです。つまり読経説法はこの上ない最高の供養です。だから僧侶は形だけではなく、本当に法を明らめた導師でなければ読経もお芝居に過ぎないうという事です。

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おきもち

「菩提心」を基として

Kou様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も毎日読経、勤行をしておりますが、その意味内容を理解して読むことと、そうでないのではやはり、大きな違いがあるものだと存じます。

例えば、般若心経も、日本人はそれなりに親しみを持って読経、写経等を行いますが、その説かれてある真なる「空」の内容について理解できているのかと申せば、99%以上の方は、理解ができないままに、扱ってしまっているのではないだろうかと存じます。

もちろん、何もしないよりかは、読経することでの少しの善き仏縁になることはございます。

今生では無理でも、来世、来来世、それ以降に、その仏縁が真に開花して確かなる仏道を歩むことになるのもあり得ないことではありません。

であれば、ほんの僅かなる仏縁であったとしても、一切の衆生を救いたいという「菩提心」を基に行うものであれば、微々たるとは申せ、一切衆生への功徳になり得るものとなります。

ですので、何もしないよりかは、それはそれで拙生は意義あるものであると考える次第であり、葬儀での読経も、一切衆生への功徳として行われることで、その中には、故人も当然に含まれることになるがゆえに、それはそれで供養として成立し得るものだと考えております。

また、拙生は現在、チベット密教の行も努めておりますが、もしも、六座上師瑜伽から、無上瑜伽タントラの成就法、その他諸々等、それらの全体を略さずに本式で正式に行なうのであれば、毎日6時間以上は掛かるものとなります・・

もしも、チベットの僧院で暮らす者であれば、その他、様々な経典や論書の講義や、その予習、復習、暗唱、問答等もあるため、俗事を行う時間など、全くどこにも無くなってしまいます。

となれば、我々のように暇があれば、その間に煩悩が働いてしてしまうような悪業などほとんどできない状態となり、それはそれで、戒律を守り、他を害さない、菩提心により善き行いに励められることでの善業を積むことができる状態であると言えるところとなります。

つまり、何が言いたいのかとなりましたら、少なくとも読経している時間は、それはそれだけでも、煩悩を抑えられて、悪業を働かせずに過ごせられる大切で貴重な時間であると言い得るのであります。

但し、必ずそこには「菩提心」がなければならないものであると存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

吉武様 大貫様 丹下様 川口様
皆様ご丁寧にご回答いただきありがとうございました。
読経は善行、基本的なところが抜けてしまっていたとまだまだ勉強不足であることに反省しております。
儀式的にいつしか経典とつながったこと、読経自体が善行であり、最大の供養にもつながると学ばせて頂きました。
私のような一般人ではなく、その道へ進まれ勉強と修行を重ねたご僧侶様があげているお経はどれもすばらしく心がこもっていると信じております。残念なことに忙しさから菩提心なくカラ読経となっている方もいるかと思います。法話はありがたいものであると感じておりますが、テンプレートのようなお話ですと少し悲しくなります。

読経にせよ寺院や仏前で手を合わせるにも心が大切。菩提心がなければ意味のないものになってしましますね。
私も手軽な般若心経を読み、聞き、写経もしておりますが「空」も含め書けば書くほど、その意味を知れば知るほどこんなにもすばらしく簡潔にまとめられていることに感動しております。それゆえに非常に奥深く正しく理解することも日々意味を考えながらも難しい部分があると感じております。

補足ではございますが、大日如来が私も最高仏と思っていたのですが、楞伽経という経典に、
「十方のもろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中のあらゆる法報身と化身と及び変化身とは
みな無量寿の極楽界中より出ず」とあり、無量寿の浄土とは阿弥陀如来をさし、上記を解釈すると阿弥陀如来がすべての仏の師ということになると考察された方がいらっしゃったようです。
このあたりは私もまだまだ勉強不足ということもありいまだにわかりかねるところでもあります。
別の本にはまたそのような記述がありながらも基本的には悟りを開かれた仏様はすべて尊く立ち位置はつけるものではないと書かれておりました。(いずれも仏教学者やご僧侶様が書かれたものです)
非常に多い経典の中でもまだまだ謎が多く奥深いものなのですね。。

最後となりますが
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。」この言葉は私自身とても好きな言葉であり、その上で八正道など釈尊は人として生きていく中でごくごく当たり前のことを説かれていました。
私も会社員で24と若輩者ですが、世知辛い世の中ではなかなかそれを実践することが難しいものなのかもしれません。
ただ仏教に惹かれ、たまたま見つけたこのサイトでさまざまなご僧侶様のご意見をいただけたことは非常にありがたく、良き縁であったと感じております。
皆様にご回答頂いた内容を胸に本日よりまた精進して努力を重ね、経典をよく読み説き、日常では日々感謝の気持ちを忘れず過ごしていこうと思います。
本当にありがとうございました。

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