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癌告知を受けた親友の支え

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有り難し有り難し 12

親友が癌告知を受けました。兄妹みたいに付き合って来た仲なのでどのように接すればいいのかどんな言葉をかけたらいいか悩んでいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつも通りに

もし、質問者さんが病気になられたとします。
病気の人だから、病気の人だからと言って特別扱いされたり、変に気を使ってもらったり、今まで通りに接してもらえなくなってしまうと寂しいものではないでしょうか。
まずは、今まで通りの関わりが大事だと思います。

寂しいことはないか
つらいことはないか
できることはないか
手伝えることはないか

尋ねられたとしても「じゃぁ、これをお願い」とも言いずらいものではないでしょうか。
お友達として一緒に過ごしてきた中で、共有し合ったものなどをお持ちになったり、同じく共有できることなどのお話をしたら寂しさを紛らわすことができるかもしれません。

仏教においては病苦を超えるべきことが説かれますが、それはご本人様がそれを望んでいない限りは周りの方が説いても中々耳には入らないものでしょう。

病気の苦しみからの救われというのは、病の中に合って病を厭う心を無くすことです。
私もがんという程ではありませんが、ずっと咳の止まらない風邪が続いております。
病と言いましても一日中、その痛みが続いているというワケではありません。
そのピークがつらいという事がある。
痛みがつらいという事がある。
痛みに関しては現代の医療ではある程度緩和する事もできるでしょうから、痛みを無くしさえすれば病気の苦しみは軽減できるでしょう。
あとは、今までやれていたことが、それによってできなくなってしまう事。
家族を守れないこと、家族を経済的に困らせてしまう事、保険に入っているかどうか。
万が一の時に保険に入っていないのであれば、金銭的な援助も可能な限りしてあげることも大事だと思います。
自分も大変であっても友の為にできる範囲のことをしてあげる。
何の条件付けもなく、ただ、ただ。
「俺にとってこいつは大事な奴。だから、この位はしてやって当たり前。」というところをあなたが考えて惜しみない献身をしてあげてください。
現代はガンを治すことに誇りを持っている医者も沢山います。
お定まりのマニュアル通りの抗がん剤治療で治るか治らないかは本人次第というドライな医療もあれば、患者一人一人に合わせた治療をしてくれる方もおられるでしょう。
ガンを治した実績のある方を調べて紹介するという方法もイイでしょう。
完治されますことをご祈念申し上げます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様。この度はお返事ありがとうございました。友人は以前から人生を諦めているような発言をしばしばする事があって。友人の親子関係。大切な人との死などが原因かと思います。本人は昔から自分の苦しみ悩みなどを話す事人間ではないので余計に心配です。いつも通り側で素のままの自分で寄り添いたいと思います。ありがとうございました。

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