回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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公務員や著名人と同じように、
聖職者の犯罪は大きく扱われます。
いわゆる正しいことを求められる職種ですから、
犯罪をすることとのギャップが大きいのです。
注目度も高くなるので、
それだけ大きく扱われるのでしょう。
信用して近づいて被害を受けた方には申し訳ないし、
お坊さんのそうなんだと思われるのも悔しいし…。
私もそういう犯罪を犯す可能性はあるから、
一方的に犯人を罵れませんが…。
ただ、
そういうイメージを払拭すべく、
周りの期待に応えていくよう頑張るのが、
私がすべきことだろうと思っています。
残念なこと、ではすまされないです
最近そのようなことが多く、嘆かわしいことだと思います。僧侶は僧侶ですから、やはり「僧侶も人間だから」という逃げはダメだと思います。僧侶はあくまで自分が修行している身だと常に思わないと、そのようなことになってしまいます。
とはいえ、注意ミスで人を跳ねてしまったり、ということは起こり得ることです。もしも過ちを犯したならば、誠心誠意きちんと謝る、それはどんな人でも同じですが、
僧侶は、「僧侶の私がしてしまった」という懺悔の気持ちを厳しく持たないと僧侶足り得ないと思います。
昨今はそんなレベルではなく凶悪な犯罪に手を染めた方もありますね。僧侶になるべきではなかったし、おそらく安易に物事を考えたのかもしれません。
いずれにしても、僧侶不信があって当然です。悲しい事実ですが。
持戒の精神
仏教は山で修行していた時代がありました。今も寺に山号がついているのはその名残です。
法然上人は比叡山で修行に励んでいましたが、里に下り市井の人に教えを説き始めました。
京都の今知恩院になっている場所に吉水の草庵という住処を持ちそこから教えを説き始めました。しかし持戒堅固で清僧であったそうです。僧侶として、そのように生きたいとは思いますが、明治5年に「僧侶の肉食妻帯勝手たるべし。」という太政官布告が出て、僧侶も俗人も
同じようになってしまいました。今は在家出身の僧侶の方のことを在家在家と下に見る傾向がありますが、昔は寺生まれの僧侶は羅睺(らご)と呼ばれ下に見られていたそうです。おの釈迦様の実子ラーフラの音写語の略から来ています。市井で生きている以上法律は守らなくてはなりません。法律がない時代は戒律が法律のような役目を果たしていたのでしょうが、今の僧侶は宗派から僧籍剥奪されるのも破戒をしたからではなく、法律を犯したからです。半僧半俗で生きているのが今の僧侶ではないでしょうか?ただ基本的なことは俗人がしてはいけないことは僧侶もしてはいけないということ。より高い倫理性が求められるということです。現実僧侶にもいろんな僧侶がいますから、それはよいのですが、犯罪だけはいけません。人として生きていく以上それは大切なことだと思います。僧侶であっても俗人であってもその差は狭まってきているのが現実ではないでしょうか?凡夫(煩悩に囚われて迷いから抜け出せない衆生)で我々はあるのです。僧侶にしても俗人にしても。阿弥陀様から見て僧侶も俗人も同じことです。絶対平等です。だから俗人にも罪人になるひとがいるように、僧侶だからと言って罪人にならない保証はない。そういう人でも救われるというのがわたしの信じていることです。罪を犯してしまったら懺悔滅罪を祈るしかないですね。師僧が保護司と教戒師をしているからそのように考えるのかもしれませんね。追記 坊主と坊さんと使い分けているようですが、坊主と言われるとあまりいい気分はしません。
末法(まっぽう)の時代か
お釈迦様が亡くなって2500年以上経ちました。
仏教が衰退している「末法」の時代かもしれません。
仏様が亡くなって年月が経ちすぎたこの地球上では、人間全体のレベルが下がっているのです。
お坊さんにも悪い人がいますが、お坊さん以外の人にも悪い人がいるので、仕方ないのです。
怒りは煩悩です。
悪いお坊さんを見て怒るとき、反省すべきは自分自身の怒りの煩悩であり、他人(悪いお坊さん)に対しては、「ま、坊主といっても色んな人がいるよね」くらいに考えたら良いのかなと思います。
とは言っても怒ってしまう。
これも末法の凡夫(ぼんぶ)(悟っていない愚か者)ゆえでしょうか。