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弟の突然の死

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有り難し有り難し 41

私は去年の12月に弟がバイク事故で亡くなりました。突然の死で受け入れられません。
いつも、一緒で頼りになる弟でした。
どうしたら弟の死を受けいられますか?
どう前向きに考えたらいいですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

若くして逝った命へのメッセージ

中学時代、一緒によくカンフーごっこをしていた新開君はバイクの事故で亡くなってしまいました。
とても面白い奴でしたよ。
仲が良かった友人たちの間では「失われた」という言葉以外にいい言葉が当時見つかりませんでした。
私はガキだったので親御さんの気持ち、ご兄弟の気持ちなどとても理解することができませんでした。
彼の共通の友達とお墓参りに行きました。剣道部で一緒だった井上君と言います。
彼は現在事実上プロギタリストです。お互い、竹刀についていた「弦」がギターになったのです。
私はご覧の通り奇抜僧で僧侶の世界でも浮いてますから、孤立感が中々払拭できませんでした。
やけ酒の日々。理解者の少なさ。報われない仏教の布教活動の日々。酒が進むことも多いです。しずかなる自死行為。体を壊して入院です。
病気で入院した時、その彼が元気になれってギターを弾いてくれました。
人の演奏で涙が出たのははじめてでした。
「どうしてまだギター続けてるの…」
「お前が教えてくれたから」
オレじゃねえよ…
その答えは「繋がり」にありました。
誰かが教えてくれたこと、一緒に楽しんだこと、関わり、縁。
隣のお寺のキャンドルナイトで死んだ新開君も好きだった音楽の活動を今も続けています。
人が仲良くなれるってこと、遊べる=心通わせることって、何歳になっても続けられることだって教えてくれたのは彼でしたから。
そこで「千の風になって」を弾きました。
婆ちゃんが泣いていたそうです。
話を聞くと「18歳で子供をバイクで亡くした」って。
何だこの人間のつながりってやつは…と思いました。
多分、あなたはどこかで誰かのつながりとの中で絶対に弟のことを強烈に思い返す時が来ます。
それを感じた時があなたの中での彼の復活です。
人は終わりだと思っていた愛する人との死を、自分が生きながらそうでなかったことに気づいた時、永遠の「つながり」を持つことができます。
そのつながりのメッセージは色々な姿に形を変えてあなたと関わり合っています。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

倶会一処

浄土宗的な回答ですが…

人は亡くなって終わりではありません。
さよならではありません。
また会えるのです。
阿弥陀仏は全ての人達を、その命が尽きる時に、極楽浄土に連れて行ってくれます。
なので、弟さんも今は極楽浄土におられます。
そこから、あなた達を見守っています。
そしていつかは、あなたも極楽浄土に行きます。
その時、再会できるのです。
この事を阿弥陀経というお経の中に、倶会一処という言葉で書かれています。

極楽浄土で元気にしている姿を思い浮かべながら、いつか会える事を信じて、希望を持って前を向いて歩んでください。

実は私も、いつかは極楽浄土で私の弟に会えると信じています。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

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