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如意輪観音って、どんな観音様なんですか?

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有り難し有り難し 26

こんにちは。

私の菩提寺の本尊は如意輪観音様です。
実家の仏壇にも如意輪様の絵札が掛けられています。
けど、如意輪様がどんな観音様なのか、未だによくわかりません。

いわゆる六大観音の一尊と言われていますが、千手観音や十一面観音、あるいは馬頭観音などは像容から仏様の働きや役割が何となくわかるのですが、如意輪観音様ってそこが芒洋としてて掴み所がありません。
菩提寺の御住職に尋ねても「まあ、あれは、いわゆる観音様ですよ」と言われましたが、何だかサッパリわかりません(^^;)

千手観音 →千本の手で衆生を救う
十一面観音→複数の顔で世界を見渡し、衆生を救う
如意輪観音→如意宝珠で、衆生の願いを叶える

と、他の観音様が「救う」事が主眼なのに対し如意輪様は「願いを叶える」となっており、ちょっと毛色が違う感じがしますが、どうなんでしょう?

空海さんが大変深く信仰し、大切にされたとも言われるし、六観音の中では、六道のうち天上界を摂化するとも言われる事から、何か寺院の奥に鎮座するノーブルな仏様ってイメージあったのですが、よくよく身の回りを見てみると、お地蔵様のように道端でよく見かけたりします。意外に「庶民派」なのでしょうか?

ネットで調べると女性的なイメージで語られる事が多いように思われます。
准抵観音(仏母)のような「母性」とは違って、艶っぽさや官能性などの「女性らしさ」が感じられるような気もするのですが。
(親鸞さんと六角堂のエピソードがそんな印象を与えてるのかも知れません。)

お坊様方は如意輪観音様をどのように捉え、拝んでいらっしゃるのでしょうか?
お教え頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

歯の神様

こんにちは。

 如意輪観音は、「如意宝珠」という思いのままに願い事をかなえてくれる珠を持っています。
 苦しみにうちひしがれた衆生がどこにいようとも、この如意宝珠がそこにころがっていって、ただちに衆生を救ってくれる、とされます。
 現世利益的な仏さまということで、人気が出たと想像します。

 私が住んでいる地域の、山道の傍らに如意輪観音の石像がひっそりと立っていますが、古くは「歯の神様」として信仰されていたそうです。お姿が、半跏思惟で、右手で右頬を押さえている事からこのように考えられたようです。
 昔の人は、歯が痛くなると、山道を登り、この仏さまに拝みに来たそうです。

 このように「如意輪観音さま」は「お地蔵さま」と並んで、地域に根付いて信仰されてきた仏さまだと思います。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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本尊とは自己の本来性。自己が自己意識を滅却した時、ご開帳。

観音とは無我の象徴。
外に求めるとファンタジーになる。
自己のありようとしてとらえることです。
こういうことを言ってくれる人はたぐいまれなり。
私もそういうことを言ってくれる人に出会えたのはまさに如意輪観音の救い。
自分にあらかじめ言ってもらいたい答えがある人にはこれは分からない教えです。
まず、自分のセルフイメージを完全に捨てて読んでみてください。
仏教辞典や仏像辞典には書いてない禅宗の覚者の教えです。

自身が自分に目を向けて仏道修行して自己意識を忘れ去る(『仏道をならふといふは自己をならふなり…自己をわするるなり(道元禅師)』)ことで、この身は外のことと自己とが隔てが無くなります。認識や分別で物事を観なくなるので、観自在。受容如意。受用如意。
この身が触れるものが人間斧見解を差しはさみませんから、何を受け取るのにも害がない。如意自在なのです。その如意自在な働き、観自在な働きが救いです。自分も救える人も救える。
反対に、人間の見解をド丸出しで生活してみると分かるでしょう。
何を見るにも観不自由。自在ならざる自己。如意ならざる不自由さ、不便さ。なんとこの身の不自由なることでしょうか。

だから人間は自己を忘ずる=自己意識を禅定によって放下する必要がある。
そうすることで、人は『自己をわするるというは、万法に証せらるるなり(道元禅師)』この身が元より法界に等しく、無見解にして自己を認める意識の生ぜざるさまとしての法の活動体として常に生きていることを明らめることができます。

己を立たせずにものを眺める時、世界は安らかです。
自分流のものの見方が入らないからです。
だから、快適安楽。如意自在なのです。
この身にいただく法が、法そのものとして伝わってくる。
この身が授かる一切が自他の隔てもなく、脱落・解脱のさまとして透過している。
過ぎていくことを追う者(私)もいない。
世界は元々人間の見解を離れた「法」のさま。
その法のさまの授かりを体感してみると、本当に自分の見解が生じないからすがすがしく、如意自在としか言いようのない「現れかた」をしているのです。
仏像というのはそういう法の様子、法相、法の姿を象徴しているのです。
そういう学びをすることをお勧めします。
外に功徳とかを求めない姿勢を大事にするのです。
自分のことにならないと仏教はいつまでたっても始まらないからです。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

光禪様
如意輪様が歯の神様と言うのは初耳でした。
大変興味深く拝読させて頂き、親しみがわいてきました。
歯の治療後の詰め物が外れたのを何年も放置して、ひどい目に合った事を思い出します。
子供の時から手を合わせてるけど、やるべき事(歯を磨く、歯医者に行く)をちゃんとやらないと、御利益も出ないものですね。
教訓にさせて頂くと共に、身近な仏様として(と言うか、仏様は自身の心中にあるものとして)、大切に拝ませて頂きます。

慈眼視衆生・福聚海無量
南無観世音菩薩
 -合掌-

丹下覚元様
厳しくも温かいお言葉、感謝いたします。
まだまだ、油断すると自分の外の仏様に救いを求めてる自分に気付きます。
と同時に、無意識に自我意識を前面に立てて物事を見てしまう自分がいます。

>自己意識を禅定によって放下する

難しいです。一生かけてもそんな境地に達せるか・・・
座禅などして一時的に落ち着きを得ても、日常生活に戻ると我利我利の自分がいます。
当面の課題とさせて頂きます。
如意自在の象徴、心の原点、心の御本尊としての如意輪観音様を念じながら、仏教を学ばさせて頂きます。

妙音観世音・梵音海潮音
南無観世音菩薩
 -合掌-

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