輪廻転生について
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。
これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。
この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。
また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。
哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。
そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。
また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。
これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。
アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。
三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。
また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。
古代中国には「魂魄」という概念がありました。
「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。
「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。
私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。
(魄についてはよく分かりません。)
さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。
これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。
私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。
ご回答よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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難しく考えすぎるのはたぶん良くないです
「アカシックレコード」を地の文にフツーに用いてご自身の論理を組み立てていらっしゃるようですが、それで本当に良いのですか?
わたしは物理学にもベルクソンにもまったくくらいのですが、何と言いましょうか。異なる根拠と文脈のものをたくさん持って来て、自分だけの価値観で部分部分をつないで、それで世界を理解しようとするのは、あまりよい世界理解の方法ではないと思います。
かつて、ベースはいちおう仏教理解から、キリスト教や仏教各宗派の、自分が理解できた部分だけを巧妙につないで屋上屋を重ねて世界を理解しようとして宗教を興して失敗し、陰謀論にはまってテロを起こして瓦解した方がいらっしゃったのを思い出しました。
あまり複雑に考えすぎるのも、簡単に考えすぎるのも、どちらも良くないと思います。釈尊は中庸を説かれ、自ら実践なさいました。難しいですが、めざすべきところではあるんだと思っています。無理せずどうぞ。
■追伸です。わたしの狭い知見からなので申し訳ありませんが、もしかすると、もう経験済みかもしれませんが、ケン・ウィルバーが合うかも知れないと思いました。概要を知るとかではなく、なるべく著作を当たってみてください。
わたし最近読んでませんし、あまり好きではなくなってしまいましたが、超絶天才であることは疑いようがありません。翻訳もすごい感じです。
■読んでらっしゃいましたか。失礼しました。
宗教を科学で説明するのは限界があります。それは科学がこの世界を説明しようとしつつ説明し切れないのと似ていると思います。
宗教や思想は選べないという認識には同意です。世界観は向こうから迫ってくるので、それが事実だと「知ってしまう」感じですよね。
考えても結論の出ないことをぐるぐる考え続けてしまうのは哲学だと思います。ジャンルがまったく違うと思いますが、森岡正博さんはどうですか? 自分を棚上げせず宗教の近くで宗教じゃないことをなさっています。『宗教なき時代を生きるために』とか。
■そうですか。お力になれず残念です。
わたしは「信じる」行為が否定されるのが信(信仰・宗教)だと体感しています。
■自分は煩悩のカタマリで信にも行にも功がなく行動は身口意ぜんぶ酷いと自認。だから阿弥陀仏に任せ往生・成仏するのみ。仏の救済と自分の行動の乖離がもどかしく恥ずかしくあまり語れない。申し訳ない。変えたい。
■人間を信じちゃだめ
仏教が指さす先は意味や説明ではなく実物法そのものになれと説く
説明というものは解釈だったり、分析マインドからの眺めで、どこまでいっても事実に没入したり、事実に一体になることではない眺めです。
わたしも昔、悟りを開いた禅僧のお話を一生懸命メモして理解しようと試みておりましたが、それは理屈や説明を聞いて頭で概念として理解するスタンスだったので違うのです。この世の実相、真実の姿を知ろう、会得しようとする場合、知識や概念が一番邪魔をするもおなので、脳内のフィルターを介さずして直感、直視、直下承当するのが坐禅、事実親密ビジョン、一体化モードなのです。
仏教、仏道とは、そのお経や説明が指さす実物、現実の方にドボンする事。
有名な映画の宣伝だけみても実際に映画館で見なければ本人の頭の中で「どーせこんなもんだろう」と思い描いている本人の脳内二次的副産物を相手にしている姿なのです。
世界の仕組みというものがアカシックレコードという宇宙の情報記録から作られたホログラムのようなものだと思える、そのように説明がつくということがあるにはあっても、それでも!この私たちの身心の周りに起こっている一切の事象・現象は、如是の相。そのようにある。かくのごとし。そして人の見解を寄せ付けぬさまをしている。それが無我という人我の見解すらも介入されない「法」の様子なのです。
法を会得、体得するには失礼ですが、こういった「概念」が邪魔ですから、説明や解釈マインドに向かえば❝擬する❞ので、事実に親しむことが一番納得、合点が行くのです。だから坐禅があるんです。法そのものになる。もともとこの生命体も不可思議なる法の様子をまっとうしている。ところが、それでも人間は何やら概念で説明をしたくなる。だから、理屈でもって、言葉でもって言わんとする行為にでる。でもそれは概念や分別智においてそれが可能であるというだけのことでしょう。
時間というものもカメラも過去や未来を撮れぬように「今」の現われのみがあるばかりです。本当の今には今という言葉も追いつきませんから。
輪廻転生も細胞レベルでも瞬時瞬時に生まれ変わっている側面もあり、人が想像、思い描くようなファンタジーの世界のことでもなく、事実、すべての事象が転生していて、ひと時たりとも前の様子でありません。一切が良い意味でも悪い意味でもなく、どっちつかずでもなしに、常に解脱しっぱなし。この自己の身心、わが身は済度されっぱなしなのです。
一般論としては、おっしゃる通りです
「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」というご指摘は、何をもって「古典的な仏教の世界観」というのか、説明の対象となる「宇宙や世界」をどのように措定するかという点が曖昧ですので、なかなか具体的な議論にはならないかと思いますが、一般論としては、おっしゃる通りと思います。
仏教は基本的に今生に生きる私たちの生死と、その根源にある心の問題の解決を目的とするものでから、仏教が捉える世界観、宇宙観はその目的に資する限り、その範囲のものです。
須弥山も南閻浮提も極楽も地獄も、どのような観測機器を使っても発見できませんが、釈尊の教えを私たちが受け取るための知識背景として成立しています。
たとえば月表面の岩石の平均的なニッケル含有量は私たちの生死、心の問題の解決には、おそらく関係しません。そのようなことは仏教の立場では知らなくてよいものなのです。
「肉体的な輪廻転生はない」と書かれている箇所の「肉体的」という意味がもうひとつよくわかりませんが、記憶とか思考のようなものを保持する何らかの器体によって後世にも「私」という感覚がそのまま引き継がれるという意味であれば、仏教のいう輪廻転生はそういうものではありません。今、私たちが保持している肉体が発生して消滅する期間を仮に今生と区切って、その終末点でどのような「状態」であるのか(それを仮に業と名付けます)によって後世の生命の形が決まるということです。極端に切り詰めていえば、原因によって結果が生じるというだけのことです。ですから三島由紀夫の言葉を引かれているような未来からの輪廻転生というものはありません。結果が原因を引き寄せるということはないからです。
未来が、どこかに何らかの形で存在しているのか(実有なのか)否かという問題は、すでに仏教の中で議論されています。たとえば佐々木閑先生の「仏教は宇宙をどう見たか」という本の中で、その一例がわかりやすく紹介されています。もし未読でおられたら、ご一瞥をおすすめします。
質問者からのお礼
石田智秀様 ご回答ありがとうございます。確かに、アカシックレコードという言葉はスピリチュアルな響きがして微妙かな、と思いましたが哲学者のシュタイナーも使っている言葉ですので、敢えて使わせて頂きました。無理せず頑張ります。
現代では、「科学的に説明する」ということが最も重要なことかと思います。
宗教的な事柄でさえ、科学的に説明しなければ他者に納得してもらえない。
よって、科学的に説明することを軸に考えていきたいと思います。
石田様 追伸ありがとうございます。ケンウィルバーに関しては、大分前に「意識のスペクトル」を読んだことがあります。その当時は、古今東西の宗教思想を統合的に理解できるもので、衝撃を受けましたが、結局概念的な理解に留まり「じゃあ私はどうするの?」という主体的な疑問に答えるものではなかった、という印象があります。
今考えると、当時は宗教や思想を「選ぼうとしていた」のですが、結局宗教や思想というものは「選べるものではない」と感じています。
丹下覚元様 ご回答ありがとうございます。
丹下様のおしゃるように、本当にダルマそのものになるためには、思考や概念は邪魔なものだと思います。そのために坐禅があるし、仏道修行もあると思います。
しかし、私は社会的動物としての自己も考えなくてはならないと思うのです。
社会に生きる私たちには、職業があり、家庭があります。
また、その時代特有の時代精神というものの影響を私たちは受けます。
(現代では、科学主義、民主主義、ヒューマニズムがその時代精神に当たると思います)
この中で、社会的生を全うするためには、「私」という枠組みで物事を考えていくことは、どうしても必要だと思うのです。
そのために、私は「主体的真実」や「魂」の存在を信じたいと思っています。
つまり、「仏教は真実で、私はそれを核にしてものごとを考えていくべきであると思うが、一方で、社会を生きる私たちにとっては仏道修行はもはや『役に立たない』のではないか」というのが、率直な感想です。
石田様 再度ご回答ありがとうございます。
「宗教を科学で説明するのは限界があります。それは科学がこの世界を説明しようとしつつ説明し切れないのと似ていると思います。」←こちらの内容については、完全に同意いたします。結局のところ、人間が体系を作ろうとする試みは、必ずどこかで破れが生じるものだと思います。
「宗教や思想は選べないという認識には同意です。世界観は向こうから迫ってくるので、それが事実だと「知ってしまう」感じですよね。」←はい、私のこれまでの経験から自然と導かれていくものだと思います。
「考えても結論の出ないことをぐるぐる考え続けてしまうのは哲学だと思います。ジャンルがまったく違うと思いますが、森岡正博さんはどうですか? 自分を棚上げせず宗教の近くで宗教じゃないことをなさっています。」←森岡氏の著作は、「まんが哲学入門」だけ読んだことがあります。現代の宗教なき時代を主体的に生きる上で、森岡氏の思想は最も正当的であると感じます。しかし、石田様のおっしゃるように、「生の中で、考えても結論の出ないことをぐるぐる考え続けていて、決定的なパラダイムの転換がない」という印象を受けます。
私の願いは、「現代の科学主義や人間中心主義がまん延する時代に、それでも私が信じることのできる宗教的信念を見つけたい」というものです。
私にとっては、執行草舟氏がその願いに初めて応えてくれた方でした。
今後は、この方の思想を中心に考えていきたいと思っています。
石田智秀様 私が僧侶の方に不満を感じるのは、その信心なり修行の境涯は、例えば戦地に行ったり、厳しい労働の下でも保てるのですか?ということです。 そうでなければ、結局人間の悪い部分を「外部化」して、自分たちは安全地帯できれいごとを語っているだけに過ぎません。 この両者を統合して語っている僧侶を私はほとんど見たことがありません。 人間の悪い部分はごまかすか、見ないようにしている印象を受けます。
石田様 もし僧侶の方が、そういった境遇の中でも信を語り続けることができるならば、私はその方を信じます。そうでなければ、私は自分で信じることができるものを見つけ出すほかないと思っています。
石田様 訂正します。もし僧侶の方が、そういった境遇の中でも信を語り続けることができるならば、私はその方の法を信じます。人間は信じちゃだめだと思いますが、法はそれを体現している人を通さなければ体感できないと思います。だから、やはり生きた師が必要なのではないかと思います。
百目鬼洋一様 ご回答ありがとうございます。以下に返答させていただきます。
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「肉体的な輪廻転生はない」と書かれている箇所の「肉体的」という意味がもうひとつよくわかりませんが、記憶とか思考のようなものを保持する何らかの器体によって後世にも「私」という感覚がそのまま引き継がれるという意味であれば、仏教のいう輪廻転生はそういうものではありません。今、私たちが保持している肉体が発生して消滅する期間を仮に今生と区切って、その終末点でどのような「状態」であるのか(それを仮に業と名付けます)によって後世の生命の形が決まるということです。極端に切り詰めていえば、原因によって結果が生じるというだけのことです。ですから三島由紀夫の言葉を引かれているような未来からの輪廻転生というものはありません。結果が原因を引き寄せるということはないからです。
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「その終末点でどのような「状態」であるのか(それを仮に業と名付けます)によって後世の生命の形が決まるということです。」という文章がよく分からないのですが、「後世の生命の形」とは具体的に何を指すのでしょうか?
肉体的な輪廻転生なのか、魂のようなものの輪廻転生なのか、それとも単に生前の行いが世間に影響を与えるという意味なのか…。
恐らく仏教的に最も正しい答えは「無記」になるかと思います。
そういった問いを求めることが、人間の根本的な病なのかもしれません。
(そして、恐らくそれは言葉を持ったことが最大の原因だと思います。)
しかし、私としてはそれを分かった上で、それでもなおなんとか仏教と矛盾しないような形で物語を作りたいと思います。
それは、やはり私は人間が好きで、その人間社会に生きているからであり、人間社会で暮らす以上、本質的に欠陥を抱えている言葉を使って、これからも考えたり、話したりしていくからです。
つまり、仏教の教義は人間の「良い部分」だけを見ているが、私としては人間の「悪い部分」、「間違っている部分」も含めて生きていきたいと思っています。



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