幸せ、仏教観点で回答受付中
お世話になってます。
約三年前に投稿した自分の質問履歴を見返してみたところ、3年前も不幸せで、現在も同様に幸せではないです。100点満点を目指しているわけではありませんが、永遠に幸せになれない人というのは実際に存在していて、私がその一人なのではと感じています。
2 また、先日車に轢かれそうになる出来事がありました。幸いにも無傷でしたが、向こうの信号無視が原因でした。これについて、私の日頃の行いが悪いのでこのような事が起こるのでしょうか。仏教的な見解があれば教えていただきたいです。ちなみに、車に轢かれずに生きていることが既に幸せといった意見は理解していますので、その点はお控えいただけると助かります。厚かましくてすみません。
3番目に(盛りだくさんですみません)
虫(ハエ)がいたので殺しました
しぶとく、殺すのに時間がかかりました
でもふと虫も殺されないように必死に逃げたのかなとしみじみに感じました。
これまでも殺したことはありますが(みなさん生きてればありすよね)命を考えたときに
命を終わらせてしまい(私が)申し訳なく思います。仏教的に教えて頂きたいです。
我ながら3番目の質問は難しい質問ですみません軽めで大丈夫です。(1、2メインで)
お坊さんからの回答 5件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
暗く考えて凹むより建設的に考えてより聡明で穏やかな生き方を
わかりやすくライトに面白く書きます。アナタが今ココから重く受け止めない為、明るいリアクションに向かうようになる、その為に✨
まず①
「3年前も不幸せ、現在も同様に幸せではニャイ」
👉日常生活の物事への望み方、初期設定的なスタンスや何かあった直後の心理的なリアクションが負の心、ネガティブマインド、悪い心に結び付「け」やすいというだけです。人は嫌なことがあると防衛的になる。「また悪いことが起こるのでは、あァまた嫌なことだァ」と結論ヅけたがるのです。🙅心のリアクションを負のリアクションにさせないため「に」心の悪玉菌、バイキンマンをうp※する必要アリ。坐禅や念仏を通して「新しい顔よ!」自己を見つめて、負のリアクションである心のバイキンマンをホトケの善玉菌アンパンチで徹底的に排除。うp※あるのみ。誰でも最初は心の勉強の学びが無いので心の運転がヘタなだけです。今日から心をマッチョにするために禅を学びましょう。※うp…unpunch👊
②車に轢かれそう~日頃の行いが悪いから?
👉先日オオスズメバチに刺されました。
死ぬかと思いました。(海老蔵風)
( ゚Д゚)パシャパシャパシャパシャ📸✨(フラッシュにご注意ください)
当たり屋にもあいました。ネット商品でチャイナ詐欺にも。
不運は日頃の行い、関係ありません。
多分、誰でもいつかは死ぬ時きます。100%。誰もが。みんな。
人は生まれも死ぬときも親ガチャも今日の天気もhasunohaの回答僧侶も選べません。でも、心の向かわせ先はあなた「が」選べる。あなたは今から心を負の方向に向かわ「せ」続けない!ことです。一本足りない凡下のYOUTUBEでも見て心を凹ませない訓練をしてくださいナ。
③(ハエ)がいたので殺しました
👉ホームセンターは虫や草を大虐殺する薬や機器が民間人でも手に入ります。
(´-ω-`)殺菌だなんて…風邪の菌、コロナウィルスが可哀そう!とか言っちゃう人は…単に危険思想です。私はあるお店でアニサキスを食らい「死ぬかと思いました。」パシャパシャパシャ!📸✨フラッシュにご注意ください。
野菜も刺身も床も衣服も生活レベルで駆除しなきゃいけない生物はワンサカいるんです。ですがむやみに殺さず互いに悪い影響を及ぼさないように工夫しましょう。オオスズメバチは駆除しました。👼年頃女性だって悪い虫がつか(以下略)
自業自得が仏教の原則ですが
ご相談拝読しました。
幸・不幸というのは相対的な概念であり、実体があるわけではありません。だからあなたは「不幸な人」なのではなく「不幸だと感じている人」だというのが仏教的視点だと思います。
ではその感じ方はどこからくるかというと自業自得であるというのが仏教の原則です。善因楽果・悪因苦果です。
善い行いは楽の感受を、悪い行いは苦の感受を報いとして受けるということです。
車にひかれそうになったというのは、一般的に悪い出来事かもしれません。でも仏教が説くのは悪因苦果であって悪因悪果ではありません。
悪いことをしたから車にひかれそうになるという悪いことが起きたのではないのです。それにはそれの原因があることでしょう。それが不注意とか寝不足とかよそ見とか、ドライバーに起因するものであればあなたにはどうすることもできません。
でもそれを過度に苦しみと感じたり、ずっと引きずって考えてしまうとしたら、その苦の感受は自身の行いから報いとして受けていると仏教的には言えるでしょう。
あなたと同じ目にあっても、同じ状態でも幸・不幸、苦・楽の感受は人によって異なる。戦争から命からがら帰還した人、大病の手術を成功した後の人があなたと同じ状態になったことを想像すると分りやすいかもしれません。
小さなことに感謝したり喜んだりする心はよりその傾向に心を方向付ける。その逆もまた然りです。
とはいっても人間そんなに強くありませんから多少の努力でも人生の災難で心が折れてしまう。苦を感じる方向に向いてしまうのは仕方ないことだと思います。
でもそこで苦を実体化して見ているのか、苦の本質を見抜くのかで、その先は変わってくるのではないでしょうか。
幸せってなんだろう
「幸せって何だろう」と言う自作の詩がありますので、お読みください。何かヒントになればいいのですが。
息ができる、手が動く、目が見える、笑う事も泣く事もできる。美味しい食事も食べられるし、住むところもあるけれど、不満いっぱいの人を知ってる。
目が見えず、音も聞こえない。手も動かず、歩くこともできない。自分では呼吸さえできず、ごはんは口からは食べられない。でも、素敵な友人に囲まれて、毎日笑ってる人を知ってる。
何が違うんだろう?
人生の早くに夫を亡くしたのに、未だに亡き夫を深く愛しているご婦人を知ってる。
老人になっても、ご夫婦ともども、お元気で暮らしている。でも、毎日、愚痴を言い合ってる人を知ってる。
何が違うんだろう?
電気も上下水道もあり、最新の自動車や大きな家もあるけど、満足出来ないで、自分のことしか考えられない人を知ってる。
電話も水道もなく、家は自分でバナナの葉で作ったもの。わずかな貯金もないけど、毎朝、托鉢のお坊さまのために、美味しいお米が炊けて嬉しいと、合掌して感謝する人を知っている。
何が違うんだろう?
幸せの感受性というか、知足というのでしょうか。
うばい合えば足らぬ、わけあえばあまる、という言葉があります。
今の私に足りないのは、これではないでしょうか。
現代人は幸せの感性が鈍っていることがあります。今一度、自然の美しさ、命の働きの素晴らしさ、お金や物ではない幸せの本質に気づくべきかもしれません。あなたもこの今、一瞬を生きています。そのことを幸せに感じられるように工夫なさって見てください。
私達は不思議な巡り合わせの中で生きてます
拝読させて頂きました。
あなたは3年前も不幸で今も幸せではないと思っているのですね。あなたがそう感じてしまうのもわかるように思います。なかなか幸せって実感できないものですよね。お気持ち心よりお察しします。
もしもあなたが今幸せではないと思うならば、どうなれば幸せでしょうか?あなたなりの幸せがあると思います。それは他者から言われるものではないかもしれません。或いは相対的なものかもしれません。
あなたが幸せと感じられるものを自ら見つけていくことできると思います。
或いはメーテルリンクの青い鳥のように実は身近にあるかもしれないです、或いは実はもう幸せの中にいるのかもしれません。
なかなか幸せって実感ないものです。
あなたが事故に遭わなかったのもケガなさらなかったことももしかしたら不幸中の幸いなのかもしれません。
いつなんどき私達は事故や事件や災いに巻き込まれるかもしれません、当たり前のように生きている中でもそれは実は当たり前ではなくて奇跡的に生かされているのかもしれませんし、恵まれているのかもしれません。そのように不思議な巡り合わせの中で生きているのです。
そうですね虫にも命がありますから、何とか生き延びようとして虫も必死で逃げていたのでしょうね。しかしながら力尽きてあなたに殺められてしまったのですね。
一寸の虫にも五分の魂、です。その虫が心から安らかになりますようにお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏
もしかしたらその虫は自分自身かもしれませんし、自分にご縁のある方々の生まれ変わりかもしれません。どの命であってもかけがえのない尊い命です。そのように尊い命を私達は日々頂いていますし、殺めている存在です。
全ての命が救われますように心を込めてお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏
おと 様
幸せを心の外に求めると誰も幸せではないでしょう。
内に求めることはできるでしょう。
心の中の「幸せ」「喜び」を育ててることを心がけてみましょう。
心の中の「幸せ」「喜び」を育てるには、心が温かくなることをすることです。
自分や他人に些細なことでも親切にしたり思いやりの行いをすると、
心が温まり、優しさを感じ、幸せや喜びを感じるでしょう。
これを繰り返すことが育てることになります。
また、幸せを感じやすくするには、心を穏やかで落ち着いた平らかな状態も必要となってきます。それには一日5分でもいいから、心を落ち着ける瞑想を習慣化することです。続けることで、「永遠に幸せになれない」という思考は減っていくでしょう。
車の件は、車社会という、そのような環境に居るのです。誰でもあなたのような目にあいます。偶然ではありませんし、あなたが悪いのではありません。あなたのせいでもありません。客観的に観て命が助かったことだけを感謝すればそれでよろしいと思います。
虫の件は、お釈迦様は、蚊は払いのけて殺生はしていないということになっていますが、払いのけた時に蚊は死んでいるかもしれません。あるいは道を歩けば知らずと虫を踏み殺しているかもしれません。蚊はこういうかもしれません。「次の世は違う生物に生まれ変われるかもしれないから、あなたを許します」って。
お釈迦様はこういうでしょう。虫に捉われて、本来の生き方を見つめられないでいるのは、悲しい。と
参考にしてください。
合掌礼