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夫と愛人の生活に嫉妬、

回答数回答 1
有り難し有り難し 39

夫が不倫相手に本気になり、家を出ていき別居。2年になります。こども二人の仲のよい家族でした。私は55歳、夫52、です。

18年連れ添った夫はもう戻る気はないといい、相手女性と同棲。二人はビジネスパートナーとして、恋人同士として、公然に周囲に紹介し、二人で海外を飛び回り仕事しているようで、仕事も順調のようです。
あちこちで楽しそうな二人の生活、二人の成功に嫉妬しています。私より若く綺麗で有能な女性で夫は相手に夢中のようです。

私は別居後、苦労しています。こどものひとりは高校を中退、別の学校入るも不登校となりまた中退、家に引きこもってしまいました。もうひとりは遅刻を繰り返すようになりました。
毎日辛く苦しい日から抜け出せません。まだ夫が好きなのです。これからひとりどうやって生きていくのか、寂しさと不安の中もがいています。
けじめをつけようと、夫と相手女性のところに話し合いに行こうと思っていますが、こころがざわつきます。夫と相手女性にとって私がなにいっても気にならないだろう、離婚をいってくるのか、と考えると決断できません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

( ´ー`)y-~~もらえるもんを今のうちに確保

(´◉◞౪◟◉)🚬
奥さん、そりゃさぞかしエライ思いされたことでしょうなぁ。←誰や
まぁ、旦那さんが目を覚ますのを待ってたらお互いドンドン歳を重ねて気が付いたらジーサマバーサマですわい。
まぁ、熟年離婚も増えてる時代ですわい。
ここはひとつ、賢く生きることですわい。おたくのダンナさんよりも愛人よりも。
ダンナの隠し金のありかを突き止めて一切合切差し押さえしておくことですわい。
ウマくやらんとだめですわ。
失礼な話ですわい。
何十年と旦那と子どもとに献身的に尽くしてきて最後最後で若いおなごとラブラブでホナサイナラでっしゃろ。
法律的にも結構な額を取れるはずですわい。
賢くならんと。
死ぬまで離婚届の判は押さんという覚悟でおることですわい。
子供たちを味方につけることですわい。
とにかく一人で生きること。
もらえるもんはちゃんとしっかりもらう事。
ダンナが入れ込んだ愛人に奥さんの分も持ってかれてまうより先にちきんと差し押さえることですわい。女怒らせたら怖いちゅうことをダンナに分からせたらよろし。
ネットでも自分が今の状況で離婚したらどのくらいもらえるかを調べられるページがありますやろ。(´◉◞౪◟◉)🚬
人生、思い切りも大事ですわい。
でも百歩譲30%の反省も大事にせんと嘘つきになる。
何でも夫が悪い旦那が悪いということはできても、本当に二人に愛があればダンナも浮気せんで奥さんの方を向いとったはずでっしゃろ。他の夫婦でうまくやってる家庭があるちゅうのはそういう事でっしゃろ。
仏教では自分の心を向上させぇと説くんですわ。
相手がどうこうではないという事。
ダンナに腹立てる、嫉妬するんは誰や。どこや。なんでや。それやってて楽しいか。いつまでやるんや。こんなことしとって人生このまんまでええのんか。目を覚まさんと。
こう自分自身に向き合っていくうちにだんだんと進むべき方向はちゃんと見えてくるもんですわい。
(´◉◞౪◟◉)🚬
ふぃー。
災難と言えば災難ですわ。
ですが、その災難を引きずるんわ、奥さん、奥さんのアタマの中なんですわ。
今日は今日で新しい。
ダンナが色ボケで若いおなごにメールでも送ってるんなら、奥さんも奥さんでそろそろ独立、出家、独り立ちする覚悟を持ちまひょか。
強く生きることですわい。
大丈夫だと思ってたダンナでさえそういうことがある。
強く生きてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

災難を引きずるのは自分、確かにそうですね。

自分はずっと夫を愛しており、でていく直前まで夫は私を家族を大事に思ってくれていると思ってました。夫の気持ちが私から離れていったのは私にも原因あるでしょう。しかし、家庭は壊してほしくなかった。

逃げてばかりの夫で話し合いになりませんが、離婚も決意して自分にそんにならないように動きます。

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