優しくしたい。
私は父母と3人で暮らしていていました。ですが、小学五年生の時、父方の祖父を東京から病気で倒れたため引き取ることになりました。
私はその時とても嬉しかったのを良く覚えています。
東京に遊びに行くと、お寿司を食べにつれていってくれたり、温泉や、お買い物等に一緒に行ってくれたり、近所の公園で遊んでくれたり…と、凄く楽しくて、これからはいつも一緒に遊べる!と思っていたからです。でも、優しくできるのは最初の一年位でした。
一年くらいで、祖父はとても元気になったので、周に3日デイサービスに通うことになりました。最初のうちは凄く楽しそうにしていたのですが、しばらく通い続けると、
「レベルが低い」「まともに歩けるやつがいない」「○○はいつもよだれを垂らしていて…」
等と馬鹿にしたような発言をするようになりました。私はそれを聞いて、大好きな車イスの母方の祖父や、小さい時から可愛がってくれた目の悪い近所のお婆さんを馬鹿にされているような気がしてとても腹が立ちました。東京に遊びに行ったとき遊んでくれた祖父と別人のように思えました。
それに、私達家族に対しても
上から目線でものを言ってきたり、干渉がひどかったり、優しくすると調子にのったり何回も注意しても聞き入れてもらえなかったり…等ということが積み重なり、祖父に対して優しく出来なくなりました。優しくしたい気持ちはあるのにそのような言動をとられると腹がたってしまいつらくあたってしまいます。どうしたらもっと優しくなれるでしょうか?
※認知症ではありません。と、お医者さんは言っていました。
※祖父は現在91歳です。
※引き取ってからは5年ほどたっています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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願いと現実
ご相談拝読しました。
「どうしたらもっと優しくできるか?」
について知るのがあなたの望みですが、お坊さん的には「優しくできない自分を知る(認める)」ところに重点を置きたいです。
あなたは本当は優しくしたいという願いを持っている。でもその願いに反してそうできない自分がいることに悩んでる。でもその悩んでいる原因となっている自分の姿がこそが事実であり現実なのです。
それは祖父様も同じではないでしょうか?本当はあなたにも家族にも優しくしたい。実際に以前にたまに会う関係の時はそうできていた。しかしやはり一緒に暮らすと常にはそうしていられない自分の姿が露わになってきたのでしょう。
それが家族の悲しい現実、人間の厳しい現実です。自分の都合を中心に考えてしまう。どうしても利用関係に流れてしまう。そういうものを私たちは内に抱えているのでしょう。
そんな私たちが「どうしたらもっと優しくできるか?」
小手先のテクニックや介護の知識などである程度は改善できるのかもしれません。しかしやはりずっとそうはしておれないものを抱えている。
であるならば、その自分の姿をこそ事実として明らかに知り受け止める、そこから始まる歩みこそが確かなもののように思います。
「優しくできる理想の自分」を良しとして「そうできない今の現実の自分」を否定していくのではなく、「そうできない今の現実の自分」を事実として受け止めるところに「ではどうするか?」とこの厳しい現実を引き受け、周りの人と共に問いながら歩んでいく道が開けてくるのではないでしょうか?
あなた一人だけでは限界がある。家族だけでも限界がある。こちらだけが頑張るのではなく、祖父様自身にも配慮をいただかないと限界がある。
その限界を事実として受け止めるしかないのでしょう。
こうすれば楽になるはず、私はもっとできはず…
そういう理想論こそが実は私たちを苦しめるのではないでしょうか。
「優しくしたい」というあなたの願いは尊いです。その願いは忘れないでいただきたいです。でも、そうはできない自分の姿もまた受け入れてほしいのです。
仏教はその自分の事実・現実を知らせ、そして救ってくださる教えです。
質問者からのお礼
吉武文法様
回答ありがとうございます!
優しくできない自分、現実を受け止めてみようと思います。ありがとうございました。