「である」ことと「信じる」こと
アルボムッレ・スマナサーラ氏の『ブッダ ー大人になる道』(ちくまプリマー新書)の第2章についての質問です。端的にまとめると、著者の主張は自己矛盾ではないかというものです。
著者はまず科学について批判的に検討します。
『科学はすべてを調べているわけではないので、常に発展途上です。(中略)科学は決して最終的な知識ではないのです(p.69)』
他の宗教や哲学についても同様です。
『宗教家と古代の哲学者は、データを調べてから結論を出すのではなく、最初に結論を出して、無理にデータをそれに合わせるという方法を取りました(p.72)』
これらの主張にはおおむね賛成です。私の専門に引き付けても耳の痛い批判ですし、だから仏教に興味を持ったのです。ここから著者は仏教的な方法論について述べた上で、ブッダの教えは「最終的」であり(p.69)、「普遍的」(p.76)だと結論づけます。
しかし、こうした著者の批判は、著者自身に対してもブーメランのように成り立つのではないでしょうか。どのような論拠から※ブッダの教えは最終的で普遍的だと説明するのでしょうか。「今のところ反証されていないから」では不十分です。また、仏教も時代とともに枝分かれし変化しつつあります。仮にこれを「完全に無知で、頑固で頭が悪い(p.88)」大人が真理を理解する能力を失ったように、信徒のみならず僧侶にもブッダの教えを解しえない者が増えてきたからだ、と説明するとしたら、それこそ結論先行というほかないでしょう。
ここには、「私(著者)はブッダの教えが絶対的・普遍的に正しいと信じる」「ゆえにブッダの教えは正しい」という(著者にはあまりに自明であるゆえの?)隠れた飛躍があるように思えてなりません。ですが、こうした考えが正しいとはいえないこと、すなわち「である」ことと「信じる」ことが別の次元に属することは、著者自身が次のように指摘しています。
『「私が思う、ゆえに正しい」というやり方が人間の大きな間違いなのです(p.134)』
長くなってしまいましたが、質問です。この著者の考えを矛盾なく理解するための方針と私の誤解の在処について、何かアトバイスを頂けないでしょうか。
※「仏教は絶対的で普遍的である」かどうかは、ここで問題にするつもりはありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
如何なる立場から考察するか
龍樹の著したとされる「中論」をご存知でしょうか?質問者様の懐かれる疑問について、それを解決に導く鍵があると思います。その中において龍樹は一貫して空性を説きます。私自身、仏教の本質を明らかにする究極の理論であると考えます。なかなか難解で恥ずかしながらその真髄を知り得るには到っておりませんが、すべての事象が「空性」に帰納することを極めて冷静に主張しています。詳しい内容は浅学な私には身に余ることなので説明は控えます。世間には中論に関する研究書から入門書まで数多出版されていますので、色々と熟読しては如何でしょうか?特に中論冒頭の八不偈について深く思索されることをお勧めします。蛇足ですが、中村元博士の「龍樹」がダイジェスト版として最適だと思います。
そうですね
私は、その本は読んでいませんが、スマナサーラ長老の著書や法話はいくつか読んでいます。
おっしゃるように、矛盾しているように思える表現がありますね。
ただ、スマナサーラ長老のような頭の良い方が、その矛盾に気付いていないはずはないと思いますので、結論(ブッダの教えは正しい)には自信があるのだと思います。
たしか、スマナサーラ長老は、瞑想についての説明かなにかで、あらかじめ判断する必要はない、ひたすら(瞑想・観察で)データを集め続ければ、自ずと答えが見えてくる、というような内容を書かれていたと思います。
つまり、長い修行生活の中でデータを集めまくった結果、少なくともスマナサーラ長老は、ブッダの教えは正しいという結論に達したのではないでしょうか。
なので、私達読者も、スマナサーラ長老の話を頭から信じる必要はないのだと思います。
答えが見えてくるまで実験(修行)を続ければ良いのだと思います。
ただ、限られた人生の時間の中で、全ての宗教を試してみる暇はないのですから、ある程度「正しいように見える」宗教を選ぶ必要がありますね。