友だちを殺してしまったかもしれない
友人と遊んだ時、人生で一番楽しいくらいの楽しさを感じ、ずっと笑いっぱなしでした。
お笑いの天才が私に憑依したかのようでした。
友だちと別れて家に帰った後、これ以上人を笑わせることはできない、もし次遊ぶなら、友だちは面白い自分を期待するだろうと思いました。
それで、もう人生これ以上の自分にはならないから、死んでしまいたいと強く思いました。
しかし、死ぬのは怖かったので、死ぬかわりにその友だちとは二度会いたくないと強く念じました。
その後しばらくして、その友人の訃報を知りました。急病でした。
自分が死にたいと思ったのに、死ななかったから、もう会いたくないという念が、友人の死という形で叶ってしまったのではないかと思っています。
シャーマンに
「君の力は自分のために使うんじゃない、人のために使うんだよ。」
と言われ、また、
幼い頃は見えないものが見えていたそうです。
母も念が強いらしく、念じたら、思い通りになる能力が少しあるようです。
幼い頃に、父は嫉妬?と仕事のストレスと転勤先での孤独から、5歳だった私に母とスキンシップを取ることを禁じ、母を独占しました。
私も新しい保育園で、前までいた理解者を失い、愛を求めすぎたからだと思いますが、いじめられました。
その頃から、幸せな人を殺したい、または死にたいと思うようになりました。
その頃から人のことを人だと思えず、もののように感じていたと思います。
5歳の時点で、性欲を感じないものと自然の美しさ以外はすべてゴミだと思っていました。
そんな僕に小学生の頃、友だちが、できました。
彼女には性欲を感じなかったのですが、勉強ができたので、
ちょうど良いアクセサリーと思っていました。
今だから、分かるのですが、彼女はぼくの心の支えでした。
彼女とは違う中学に行き、孤独から声が出なくなりました。
そして、痴漢をしました。(優しさで他言されていません)
高校受験に失敗し、母にとってアクセサリーとして使えなくなった僕は、生きてる価値がないと言われました。
今は大学生です。彼女の死後、友人に恵まれ、人を人だと思えるようになりました。
そして、彼女は私を愛してくれていたことを知りました。
自分の小さな不幸が他人を不幸にするのが嫌です。
行動は律せられています。念は律する方法が知りたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の念について
原始美術さんへ
自分の念で友達を殺してしまったというのですね。
そんなに強い念能力があるのであれば、それを平和のために使ってください。殺せるぐらいの力があるのですから、多くの人々に幸せにするぐらいは簡単なはずです。
自分の念を律したいのであれば、そのような悪い心を念にしない心を作ってください。そのためには修行が必要です。修行はいろいろありますが、まずは読経が一番良いと思います。いらないことを思ってしまうより、毎日お経を読んで心をお経で満たしてください。すると余計なの念も思う暇がなくなるはずです。合掌
念について思うこと
源氏物語で嫉妬に狂って生き霊になり人に取り付き殺してしまう、という場面がありますね。念じるとか念をおすとか大事な場面にも、この「念」ということばが使われます。私は浄土宗僧侶ですので、「念仏」をいたします。
あなたが、書かれていらっしゃるような能力がありませんので、私の考えを書かせていただきますが、自分でよい方向にコントロールできないのであれば、その能力を使わない、封じる方向にもっていかれた方がよいと思います。
私はただ南無阿弥陀仏ととなえ、阿弥陀さまにすべてをお任せすることでしか何事もなしえません。
お相手が亡くなって初めて大切な人だったと気づかれたのですから、これからの人生、よりよい方向だけを念ずるようにぜひ転換されて下さい。
あなたの人生が幸せな進みになりますように。
南無阿弥陀仏