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自己嫌悪を拗らせて消えたくなりました

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有り難し有り難し 25

こんにちは。
既に何度か利用させて頂いております。

私は二人の子供を育てつつ、家事の合間に趣味のイラストを楽しんで、SNSで交流を深めたりイベントに参加するなどしています。

少し前まで非常に楽しく、心身共に健康的で快適でとても幸せでした。

今はとても辛いです。

元々メンタルは弱い方で、一度拗らすと雪だるま式に膨らみ上がり、春先の体調不良と共にメンタルの不調も大きく成長しました。

これまでは自分の絵が注目されなくても別に平気だったし、自分はそれでも楽しかったのに、今は(どうせ誰も見てくれない)が念頭にあり、結局SNSにアップして反応がないと(ほら、やっぱり私の事なんて誰も見てない)と勝手に落ち込む始末。
さらに、大切な友人が褒められたり賞賛されているのを、憎らしいとさえ感じてしまいます。
そして、こんなふうに他者を憎いと感じる自分も、自分を虐めてしまう自分も嫌だし、たかだか趣味に躍起になって心身を壊してしまうほど没頭してしまう自分も嫌で嫌で仕方ありません。
恥ずかしい。本当に恥ずかしい。
先日こんな醜い心情をついツイートに吐き出してしまったのですが、呟いたあとの自己嫌悪と、反応のなさ、さらにフォロワーが減ったことには、普段は何も感じないのにこの時ばかりはさすがに落ち込みましたし、自己嫌悪が増すばかりでした。

というか、そんな吐き出しすら許されないのだなと思うと、私の居場所はもうどこにもないのではという錯覚に陥ったり、こんな不快感を与える人間などもう消えてしまった方が良いのではないかとすら考えてしまいます。

もちろん本当に消えるわけではないですし、いざ消えるとなると判断が鈍るのですが、このようにマゴマゴモダモダと悩み同じ所を回るばかりの自分が愚かで恥ずかしく、情けなくてとても嫌です。
時間か解決するのでしょうか。

何で調べても「ストレスが溜まってる」としか出ず、じゃあストレスが溜まってない人って逆にいるの?と聞きたいくらいです。

それとも私のような人間なんて、本当に消えてしまった方が世の中の為にいいのかもしれませんね。
たかだか趣味にそこまで追い詰められるのは、二児の母として本当に恥ずかしい限りですが。

ああもう馬鹿ですね。わかりづらく書きなぐりの文章ですみません。

消えてしまいたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己嫌悪は自己愛の裏返し

ご相談拝読しました。

ご自身でおわかりの通り拗らせていますね。しかし拗らせていらっしゃるのは「自己嫌悪」ではなく「自己愛」でしょう。

自己を愛し、自己に執着するがゆえにその裏返しとして自己に反するものには怒りや憎しみがわくのでしょう。

だからといって「自己愛」をやめなさいと言うのではありません。誰だって自己を愛し、自己に執着するものです。そこから脱せたらもうそれは仏の覚りの境地です。

現実的にはその愛し執着している「自己」は果たしてなんなのか?本物なのか?ということです。

人は本当のものがわからないと本当でないものを本当にしてしまいます。あなたの場合は実際現実の自分でなく、頭の中の理想の自分を「本物の自分」「あるべき自分」と錯覚し、それにとらわれているのではないでしょうか。

だから理想の自分と比べてそうならない現実の自分を責める。そして理想の自分が描く理想の世界を考えてそうではない現実の世界を責める。

しかし世界・世間はただそこにあるだけです。許すも許さないもなくただそこに自然と成り立っているだけです。

その世界に対し「こうあってほしい」「こうあるべき」と期待し押し付けているのは実は自分の方なのです。

「自分はダメだ、恥ずかしい、情けない」と言いながらも「そうは言ってもまだ捨てたもんじゃない」「こんな部分もある、それをわからない世間が悪い」と、どこまでも自分を立て、掴んで離せないのが「自己愛」の根深さです。

本当に自分が嫌なら人は変わろうとするものです。でもそうでもなく、この自分を認めろと世界を世間を責めるのはやはり自己愛でしょう。

その私たちに対し「変われ」というのは愛無き言葉、「あなたはそのままでいい、私が変わろう、そしてあなたを救おう」というのが仏の慈悲でしょう。

その仏の慈悲に触れるからこそ初めて私はそのままの自分の姿が明らかにされ、愚かさ・至らなさを受け入れ、そして少しでも仏の願いの様にありたいという私の願いを呼び覚まされるのでしょう。

消えてしまいたいと願うほどに自分を守りたい、これ以上傷つけまいと囚われるその「自己」とは何なのか?
実は「理想の自分」に振り回されて、あなたそのものを苦しめてしまっているのではないでしょうか?

私たちはそんなに大したものじゃない。そこに本当に頷けたら変わります。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

回答、誠にありがとうございました。
『消えたい』欲求も日を追う毎に減っていき、気持ちもだんだんと前向きになって参りました。
実は自己嫌悪と自己愛についてずっとモヤモヤと考えていたのですが、恐らく『こんな思考を持った私でも見捨てないでほしい』という、縋りたくなるような気持ちが根底にあるようです。
でも、そういった自分に最後まで付き合ってあげられるのも自分自身なのだと思うと、やはり自分自身を味方にするのが一番の救済方法なのかも知れません。
嫌悪して心身をボロボロにするくらいなら、周りに迷惑にならない程度に愛してあげて、ちゃんと自分を大事にしていけたらと思います。

大事なことに気づかせて下さり、本当に有難うございました。

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