限界が近いようです
閲覧ありがとうございます。
25歳の女です。
小学生の頃から漠然と死にたい気持ちが収まらず、時を経るにつれてその気持ちがどんどん増幅しています。
昔は楽しい時期もありました。感情にひどい波があります。一度はまると何日も塞ぎこみます。
最近笑っていませんが、楽しいときは数日から一週間ほどまともでいられます。
人生が悪い方悪い方へと進んでいる感覚です。それと共に、一生このまま死にたい感情に押しつぶれそうになりながら生き延びれる自信がありません。
ですがどこで死ぬにも迷惑がかかります。死ぬに死にきれない葛藤で、ネットで死にかたや死に場所、同じように死のうとしている人の話を見て気をまぎらわしています。
こういうときは薬を飲んで寝て、現実逃避をするのが自殺を免れる方法ですが、何度も何度もそんなことしても結局起きたら重くのしからかられている感覚が戻ってきます。
最近は前世でなにか悪いことをしたから天罰が下っているのかなと考えてしまうほど迷走しています。
縁を切った家族には頼れない、友達もいない、彼氏に迷惑かけるくらいなら一度清算して終わりにしたい、精神科はお金がかかるし自分を取り繕ってしまうから伝えられない
頭のなかがぐちゃぐちゃで、ひと刺しで終わらせたい、でも、自殺したらさらなる苦しみが待っているといいますし、現世と自殺後の世界どっちがましなのかと考えたり。
経済的な余裕がなく、心の余裕もなく、楽しい気持ちもなく、修行するために生まれてきたといってもこころがめげそうです。
まとまらない文章になってしまいましたが、人生の目標、死にたい気持ちからの逃れかた、前世との関係性などについてご教示くださると幸いです。
よろしくお願い申し上げます。
小学生から死にたいと思い続けて死ねない 毎回の鬱の波のたびに自殺したいと思うができない 笑うことが少なくなった 誰に何を言えばいいかわからない 精神科も無駄 言い訳がひどい、責任回避、逃避癖
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『正体』。
『昔は楽しい時期もありました。』
『人生が悪い方悪い方へと進んでいる感覚です。』
楽しいだけではだめだと
気づかれてらっしゃるのですね。
実際、仏教でも
『「楽しさ」で紛らわしてばかりいると、余計ひどい目に遭うぜ。』
と言っています。
楽しむことはたいせつですが、「楽しさ」に振り回されてはいけない。
「楽しさ」で紛らわそうとして、もっとたいせつなことを忘れているんじゃないの?
といったような問いを突き付けてくるのが仏教ですから。
仏教だけではありませんが。
たとえばパスカルというフランスの有名な学者さんは
『気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことを考えないことにした。』
と言っています。
で、それでいいの?と問いかけてるんですね。
350年も前に。
せっかく休日のレジャーに出かけても
カギのかけ忘れとか
アイロンつけっぱなしとか
気になりだしたら楽しさで紛らわせば紛らわすほど
苦しくなりますよね。
宿題やってないのに
友達の家でゲームしていても
どこか胸のあたりとか
なんかこう
きゅうっと苦しい感じしたことないですか?
楽しんでいるのに、どこかで
ぜんぶ無かったことになればいいのに。
そう思ってしまう。
たとえるならそんな感覚でしょうか。
やはり突き止めてほしいと思います。
生きていくというとき
死のうというとき
まさに松田さんにとってたいせつなことは何なのか。
楽しさで紛らわせきれない
この苦しい感じはどこから来るのか。
おそれず見つめてみていただきたいです。
その「正体」が分かったとき
かならず、生きることを
精いっぱい感じて「楽しい」に触れることができると
思います。
分かってしまえばあっけないはずです。
「楽しさ」が人生の全てですか?
譬えるなら「カギをかけた。」「アイロンもかけた。」「宿題も終わらせた。」
そのような『安心』を下支えに生きていくのが
なによりも大事なことではありませんか?
ですから
どうか「心の『安心』」を見つけていただきたいです。
ご自分で見つけるしかありません。
さすれば
人生の目標も、死にたい気持ちからの逃れかたも
堂々と松田さんご自身で見つけられることと、私は信じています。
南無釈迦牟尼仏 合掌