友の死に対する後悔
先日、親友が亡くなりました。
何時でも逢えるだろうと思っていたのに、彼は亡くなりました。とても急な死でした。
亡くなる何ヵ月か前に同窓会があったのですが、その時の彼は元気だったそうなのです。私は仕事の後だったので疲れて家で眠ってしまっていました。
無理してでも会に出席していれば、そうでなくとも連絡だけでもとっておけば、何故そうしなかった。今はそう言う気持ちでいっぱいです。
彼とは、長い間逢っていませんでした。何時でも逢えるだろうと思い込んでいたからです。なのに、再会はお葬式になってしまいました。悲しくて、どうしようもありません。
後悔の念が、心に渦巻いています。私はこれからどうするべきなのでしょうか。
彼は、生前逢いに来なかった私を恨んでいるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
恨むのではなく、あなたを待っていてくれていますよ。
そうですか。。。それは、お辛いでしょうね。。。
会う機会があったのに会えず、あの日が最後になるなんて。お葬儀では、同窓会で会った仲間から 彼の様子を聞かされたのですよね。だから、あの日あの場に行けなかった自分を後悔してしまうのですよね。
本当に、この世は無常ですよね。
突然に、別れがやってきてしまうのですからね。
悲しいわね。。。
仏法には、永遠の別れがありません。
この世のいのち終え、往き生まれていく道があります。それが仏様のお救いです。
亡き友を想い、仏法を聞いていきませんか。
そして、いつの日か、仏様の世界で、遇う日を願いませんか。
彼は、あなたを恨むのではなく、待っていてくれていますよ。
あなたのお友達を、そして あなたを想い。
私も、大事に手を合わせますね。
死者とともに生きる
タイトルは、東京工業大学の中島岳志先生がよく講演のなかでおっしゃるお言葉です。これはもともとはヒンドゥー教の言葉なのだろうと思います。
中島先生がこのインド由来の言葉を持ちられたのは、東北の震災発生からまだ2週間だったか10日くらいだったかしか経っていない被災者の皆さんに向けて何か言葉を贈ろうとなさったときでした。
先生はとても仲の良い出版社の編集者が若くして亡くなり、落ち込んでおられた時期がありました。その時期に新聞に記事を書かなければいけなかったけど、多忙だったから以前どこかに書いたようなことを焼き直してさっさと書き上げ、メールで送ってしまおうとしたそうです。その瞬間、亡くなった編集者のことが頭に浮かんだそうです。そして次の瞬間、「いや、これではいかんぞ」と思い返し、焼き直しの原稿を捨てて新しい原稿を書き直して提出したそうです。「オカルト的なことではないけど、彼に見られているような気がした」「彼に対して恥ずかしいことはできない」というようなことを感じたのだと思う、ともおっしゃっています。
東北の被災してまだ日も経たない人々に上記の経験を語り、「死者は死んではいない。少なくとも私たちの心のなかに生きている。死者とともにこれからの人生を歩いていきましょう」といった内容の文章をおくられたそうです。
翻って、私は寺院の住職ですから、数多くの方々のお葬儀をさせて頂きました。例外もありますが、よく知っているかけがえのない檀家さんとお別れしてきました。その方々に支えられて生きてきたのですから、私のような者こそ死者とともに生かされているのだと言えます。だから中島先生のお言葉が私には強く響いてきます。
あなたは会える機会があったのにお友達と会わなくて後悔なさっているようですが、社会にでたらいつでも同窓会などに出られないのは仕方ないことです。もちろんお友達もそれを気に留めておいでになりません。そうしたことうよりも、お友達とともに明日を生きてください。
質問者からのお礼
回答、本当にありがとうございます。
何か具体的な言葉で綴るには私のような無知蒙昧な人間には難しすぎるのですが、救われた気持ちになりました。私を待つ友のために、そして心の中に彼の姿を残し、毎日を生きていきたい所存でございます。
少しの間の別れ、悲しいですが、徐々に立ち直っています。
お礼の言葉が遅くなってしまいましたがどうか御許し下さい…