正定聚というのは菩薩なのでしょうか?
本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。
また必定の菩薩と名くるなり
と言ったように、親鸞は入数正定聚を菩薩だと言っています
けれども無量寿経の41願からの
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。
と言ったような他方国土の願はこの世界に適用されてないように思います(念仏者も盲目になったりする)
ということは、身体障碍を持っている方は信心を得ていないということになるのですか?念仏者で悟ってない人は信心を得ていないということになるのですか?
それともこれは法蔵菩薩が悟っていないという証拠でしょうか?
正定聚というのはもともと菩薩の位に使われる言葉だったそうですが、浄土真宗で言われる正定聚は「菩薩」になるということなんでしょうか?弥勒に同じとも言われますが
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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変わるものと変わらないもの
どうしても41願と障碍のことがご自身の中で課題となっているようですね。お聖教から課題をいただくことは大切な事です。生涯を通して課題をいただいていきましょう。
そしてそのこと(聖教の解釈)と、のちさんの信仰・救いはもちろん重なる部分もありますが、また別の問題でもあります。
私が中学生の頃にならった足利尊氏の絵はもうすでに足利尊氏ではないとされています。しかし絵の人物の特定についての見解が変わったからといって足利尊氏が足利尊氏でなくなったわけでも、絵の本人が本人でなくなったわけでもないのです。
つまり、正定聚が菩薩であろうがなかろうがのちさんがのちさんであることには何ら変わりありません。
そしてのちさん自身が障碍と考えているものもそれ自体は信仰によって症状が変わることはありません。
しかしだからといって信心をいただけないわけでも救われないわけでもないのです。
中村久子さんについてはご存知かと思います。
https://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/exhibition_ja/20060612-20060804_001_003_007_ja.html
久子さんは確かに信仰による救いをいただいていかれたのではないでしょうか。
正定聚は次生の往生即成仏が決定した位です。定まったというところに信心として既に浄土の功徳ががたらいてくるのです。それといわゆる障碍の有無は関係がありません。
のちさんも必ず救われます。しかしのちさんがのちさんであることは変わらないのです。
経典に説かれる物語は私たちを救うための真実の物語です。のちさんが救われないのであれば今、法蔵菩薩はのちさんとなって共に迷いの中を流転しています。のちさんの信心獲得と同時に法蔵菩薩の成仏が見出されるのではないでしょうか。
仏は我が心の中におさまるものではないですが、しかし同時に我が心を離れてはいないのです。
菩薩が輪廻する場合の話かも
菩薩も、成仏するまでに何回か輪廻転生を要する場合があります。
阿弥陀仏の名前を聞いた菩薩が輪廻転生した場合に、来世では先天的な身体障害者にはならないという意味かもしれません。
菩薩だって生老病死はあるので、生きているうちに後天的な病気や怪我で後遺症を得ることは、避けられないでしょう。
前世ですでに菩薩であり、しかも前世ですでに阿弥陀仏の名を知っていた方の場合の話ですが、神通力がないと前世の記憶を思い出せないので、確かめようがありませんね。
質問者からのお礼
みなさんありがとうございます
心に響くものがありました
けれども言葉に拘泥しすぎている自分がいるのも確かで、教義上の疑問が晴らされなければ不安が消えないのです…。
もう一度似たような(けれども少し違う)質問をしますが、お許しください