いじめ
小学校、中学校の時、とある男の子に対するいじめがありました。
その子とは小学校の最後の2年間と、中学校の最後の年だけクラスが一緒でした。
小学校の時は、ばい菌扱いをされていたり、調理実習などで同じ班の人に嫌がられていたり、活動の時にものに触らせてもらえなかったり、からかわれていたりしました。ばい菌扱いには加わりませんでしたが、その子のとなりの席になってしまい嫌だとその子の前で言ってしまったこと、その子にカンニングをされカンニングされたと先生に言ってしまったことがあります。誰にカンニングされても先生にはカンニングをされたとその時の私は言ったかもしれません。でも、罪悪感が残っています。
中学校の時は、菌扱いなどはなくなりましたが、からかわれたりしていました。一度隣の席になった時に、話しかけられて、その時すごくイライラしていて、怒ったように接してしまいました。授業のグループワークで同じ班になった時も、その子の意見が違うと思ったので違うと思う、と反論してしまいお互いと言い争いになったりしました。
教室でその子がからかわれている時、からかっている人の声がすごくうるさくて、まだその子をからかっているようなその男子が本当に嫌いで、うるさいからやめてくれと怒鳴ってしまったことがあります。その子が悲しそうな顔をしていました。その子に対して言ったように聞こえてしまったのかもしれません。
その子は毎日学校に来ていて、普通にみんなにも話しかけていました。クラスで少し浮いていて、主犯の子がいるわけでもなく、みんなに少し距離を置かれてしまっていました。
話しかけたり、かばうこともできたのではないかと今ではすごく後悔しています。からかわれている時、からかっている人に対してうるさいと言ったのも、その子に言ったように思われているかもしれない。その子は私のことを怖がっていると思います。
その子とクラスが中学3年間同じだった男子が、同じ高校の同じクラスのようで、普通に話していると言っていました。連絡先を聞いて、謝っても良いと思いますか。その子と私は性別も違い、仲良くしていた時期も一切ありません。
謝りたいです。その子が望むなら、ですが…。
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似たような記憶が引き出される
こんばんは。最初の質問から読ませていただきましたが、高校生の今になって、過去の罪悪感に苛まれているのは、いまあなたが似たような気持ちを持っており、過去に積み残してしまった後悔が思い出されているのだと思います。
残念ながら、人は縁の働きによって、虐めたり傍観したり、いじめられたりします。それ自身は根絶できないかも知れませんが、あなたがいま至っているように、反省して謝る、ということはできます。むしろ忘れてしまう、次回も目をつぶろうというパターンにならなかったことは、坊さんとして「良かったな」とさえ思います。
お二方、あるいはお三方に対して、今から謝るのは悪くないと思いますよ。電話やラインじゃなく、手紙という手もあります。相手が「そう、もういいんだよ。気にしないで」と言うかどうかは未定なので分かりませんが、少なくともあなたの中には「自分の良心に従って行動できた」という安堵と自信が残ることと思います。
そして、謝っても謝らなくても、今後のあなたの姿勢として「人にどう接するべきか」という価値観や信念を作る材料にはなると思うのです。「過去の失敗から学ぶ」ということですね。実際のところ、「いい人、立派な人」というのは、過去の傷から学んでいることが多いのです。「あんな思いはもうしたくない」って。
願誉師も私も浄土宗の僧侶ですが、私たちが日々お唱えするお経には、「自分の不甲斐なさを懺悔します」というパートがあります。それを毎日噛み締めて「では私はいま、どうすべきか」を考えるクセづけをしているのだと思います。あなたもその途上、私たちと同じプロセスにいるのだと思いますよ。「よく生きる」ためには過去の経験から学ばなきゃなりません。