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仏様について

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仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こういう話かな?

なんとなく分かる気がします。
①如来がコンピュータ本体というのは、如来は世界そのものといういう意味でしょう。ハードとしての世界(宇宙)そのものであり、同時にソフトとしての世界の道理(法則)そのものも含む…と。

②菩薩は基本OSというのは、OSがハードを動かすプログラムだと見なすと「ん?違わない?」となります。
でも昔のMS-DOSに対するWindows みたいに、一般人には理解しがたいMS-DOSの言語を、Windowsが誰でも感覚的に使えるよう通訳していると捉えると、MS-DOSが如来でWindowsが菩薩というのはしっくりくるでしょう。

③明王は応用ソフト…これは私もよく分かりません。ウイルスバスターみたいなやつのことかな?
むしろ私の感覚では、PCのハードとOSが如来で、菩薩が応用ソフト、明王はセキュリティーソフトくらいの方が分かりやすいように思います。

④天部は支援ソフト…『聖☆お兄さん』で、梵天や帝釈天、吉祥天のような天部は、お釈迦さまのマネージャーやプロデューサー…というイメージで描かれていることからきているのでしょうね。

仏教では、コンピューター本体…つまり世界はいくつもたくさんあります。釈迦如来の世界が私たちの世界、もっと西には阿弥陀如来の極楽浄土があり、逆に東には薬師如来の浄瑠璃浄土があり…みたいな感じです。
あ、そうだ。ハードとソフトひっくるめて如来と言わずに、阿弥陀如来OS(ソフト)搭載のPC極楽浄土(ハード)くらいに表現したほうが平たかったですね。

話を戻しますが、そんな感じで世界はいっぱいあります。つまりパソコンがいっぱいありますので、パソコン1つがなくなっても問題ありません。むしろPC釈迦如来の後には正当後継モデルのPC弥勒菩薩が予定されていますからご安心を。その先の予定は未定ですけど、まぁいずれ何かしらリリースされるでしょう。

ちなみに菩薩は必ずしも悟っていないわけではありません。例えば観音菩薩。大昔に悟った正法明如来が人々の救済のため、観音菩薩という姿で私たちの世界に来ています。
それに厳密に言えば如来も菩薩も人格ではなく、世界や救いのありようの暗喩です。
書ききれませんが、「仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違い」というのはこの2点を押さえてあるように感じられます。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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どうでしょうかね…

拝読させて頂きました。
仏教は全ての人やものが仏様に成ることを目指していく教えです。
全てのものが一切の迷いや苦しみや憎しみや怒り等のを捨て去って完成に円満なものつまり仏になる教えであり、道ですよね。
ですから仏は目指す目標です。菩薩も天つまり神も王も仏を目指す途中です。
そのように仏となっていく為に様々に研鑽を積んでいく道です。
ですからコンピューターの世界やシステムとはちょっと違うように思います。
マンダラは仏教の世界観を表現していますからそれはコンピューターの世界と似てる部分はあるかもしれないですけど仏様が真ん中ですからね。

捉え方や考え方はそれぞれかとは思いますが私はそのように思います。
如来様つまり仏様がなくなることはありません。
私達は共に仏様を信じて仏様に成るように道を歩んでいく同胞ですからね。
いつか必ず私達自身がそれぞれに仏となっていくのですからね。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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う~ん。

みぃさん、こんにちは。

コンピュータに例えられないと思います。
仏の世界観は密教曼陀羅が示しています。それを参考にするといいかも知れません。
ただし、それも一つの見方であり、仏教経典によって仏の世界観はまちまちです。
いろいろ勉強しみてくださいね。合掌

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おきもち

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法身と色身

みいさま

仏様の存在には、大きく分けて、「二身」があり、一つは、「法身」として、悟りの真理そのままのお姿、しかし、このお姿では、誰に対しても、その真理をお説きになることはできません。

もう一つは、「色身」(報身・応身)として、衆生に対して教えを説かれるためのお姿となります。

まだ悟られていない、如来を目指されておられる菩薩は別として、如来の色身、化身として現れられている菩薩や明王としてのお姿は、所化(迷い苦しんでいる衆生の側)に応じて現れられているものであり、もし、それら如来の色身・化身のお姿が無くなられても、法身自体は無くなることはないため、そのまま浄土にあられると思って頂いても構わないかと思います。

もちろん、一仏国土、一浄土は、如来のお力が及ぶ範囲となるため、もしかすると別の国土へと教化に赴かれることがあり、例えば、今のこの娑婆世界には如来(お釈迦様)の法身が不在である可能性もなきにしもあらずではありますが・・(ただ、お釈迦様がお加持なさられた法の力は、まだこの娑婆世界に残っているのは確実であると存じます。)

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

コンピューターの例えをしてしまいましたが、色んなお話、ユニークな例え、仏様の事少しだけ勉強、知ることが出来た様に思います。教えて下さりありがとうございました!

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ