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なんでそんなこと言うの?

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

大切な男友達がいます。
もう10年近い中で親友です。

その男友達はすごく優しいですが、
ごくたま言葉が尖っているんです。

気にしなければいいのですが、
お互いのことを知り尽くした中だから
少々意図的に感じてしまいます。

例えばこの間は、
「お前贅沢してきたもんな!」と
言われました。

事の経緯としては、私の家は裕福で何一つ不自由なくさせてもらいました。
彼の家も裕福ですが、自ら親と縁を切り、お金にコンプレックスを持ち始め、悪いこともしていたようです。

しかし彼は立派な高収入を得られる
職につきました。
そこで私も「私も頑張ろう。今までの生活を変えたくないし。」と言うと、
少し嫌味っぽく初めのことを言われました。

お前と言われることもないですし、
正直未成年の時なんてみんな親にお世話になってるのではないか...?
私の努力さえも、そんな風に、贅沢と取られたことがすごく嫌でした。

なんでそんなことを言えるのか?と不思議に思ってしまいます。
私が嫌がることを知っていて。

すごくいい彼ですし、他は申し分ないですが、たまにそう言うトゲのある言葉を言われるので傷つきます。
こんな時の対処法というより、こう言う棘を向けてくる心理とはなんなんでしょう?

ものすごく思いやりのある人なので、
何も考えてないと言うことはないと思います。人の気持ちも考えられるし、本当に優しいからこそ、本音なのかと思うと、、、


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういうもんだとわかってあげるだけでいい

自分が言葉に傷つきやすいと思うのであれば、その言葉をそのまま受け止められる心を持つことです。
本当に違うのなら、相手に誤解されても堂々としていればいい。
思い当たる点があるなら、そこに向き合えばいい。
別に、責められても責められてはいないということがあるものです。
達人はあなたを罵倒してきても、責められないのです。
日々ネット内で死ね、消えろ、ホトケにしたろかのバリゾーゴンの溢れる社会で、言われた言葉一つ、言われた言葉一つで毎回へこんでいたら、命がいくらあっても足りません。
だからこそ、仏教は言葉の本質を受け止めろというのです。
「おい、それを取ってくれ。」
「え?どれ?」
「それだ!目の前の。早く!」
「は、はい。」
「さんきゅ。」
((;´・ω・)そんな乱暴な言い方をしなくたって…)

たとえば、こんな感じの日常会話。
本当は言葉には相手を傷つけるモノは何もない。
もちろん言い方が悪いのはあるでしょう。
でも、言葉は本人の口から、当日の本人のコンディション、そこに至る前のいろいろな積み重ね、因と縁とでたまたま、悪意もなく「お前贅沢してきたもんな!(私もだけどね💛)」とか口から飛び出してきただけ。相手が勝手にそう思っただけ。
「うちら同じく親のカネでらくさせてもらったもんなァ」的なお仲間意識として言ってくれているのかもしれません。
そこに、受け止める側はいろいろな意味を添えるものですが、本当はただ🐤ぴょこん🥚と出てきただけ。
そこであなたも自分が責められたかのような気持ちを添えてしまったのでしょう。
その言葉に対してこちら側が自分流の意味を添えるのです。
だから、言葉のカラーが変わっていく。響きが変わっていく。
その言葉にこちら側が本当は意味を添えたのです。

仏教では、そういう物事にわたくしマインドで勝手な意味を添えたり、自己流な思い方を添えて苦しむことを「お気をつけなされ」と教えてくれています。
ここでの言葉のメッセージですら、人によっては受け止め方が異なるでしょう。
色んな私見を添えたり、脳内副産物ワールドへ旅立っている人もいるでしょう。
人生は長いといっても、いつも今の事っきりです。
自分が今ここで見たり聞いたりしているもんに自分が自分流に思いを添えているだけ。
それなしに受け止めて見ましょう。
本当の目と耳と心が起動します。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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