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パニック障害

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結婚してから、職場での人間関係、及び夫との不仲によりパニック障害になりました。

今は通院も必要ないと診断され、発作もなく過ごしています。
通院中に、心療内科の先生にも相談したのですが、物事を悪いように考えてしまったり、ふと何もすることがなく娘と二人でいると、突然に、「産後うつの人のように、気がおかしくなり娘の首をしめてしまったらどうしよう」や「気がおかしくなりわたしが自殺でもしたらどうしよう」などという、得体の知れない不安に襲われることが時々あります。それは、特に生理前に起こる現象で、PTSDという病名だそうです。おそらくパニック障害も関与しているかもしれません。

ただただ、娘と幸せに暮らしたい、そう願っています。
不毛なことを考えないようにするには、私自身どのように強くなればいいのでしょうか? 愛する我が子にそんな恐ろしいことを想像してしまう自分が嫌で仕方ありません。
この不安な気持ちを脱ぎ捨てたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたのような人のためにこそ坐禅がある

当山の坐禅会でもパニック症候群やPTSDが緩和された、薬がいらなくなったという方がおられます。
私自身も、心があまりふらつかなくなりました。
なぜでしょうか。
坐禅をして、坐禅の要点がわかると、心の調整が上手になるのです。
心が現実離れしなくなる。心が思考の世界に旅立たなくなる。
心がありもしない事を信じなくなる。
坐禅は正しく修行すれば、あらゆる心の病に効果があると思います。
私自身に一番力になったのは、禅の指導者のお話をよく聞いて自分を見つめることでした。
人間は多くの方が自分でありながら自分の事を知らない。
厳密には自分の精神の動き・運ばれを自分でよくわかっていない。
何故なら、思考が変わるからです。
パニックもフラッシュバックもトラウマも、心の中で想起した思いに対して、自身が過剰に反応してしまうことで心が苦しいわけです。
思ったことをそのままにできるように過ごせると心の苦しみは軽減します。
私は心の病というものはものによってはわざわざ病名をつける必要などないものもあると思っております。
もし、心が苦しいというのであればその苦しい心は自分の中にあります。
だから心の扱いが上手になればいいのです。
だからこそ、坐禅や瞑想など自分に向き合う行があるのです。
思い起こされる思いは本来自然発生的なもの。
防衛反応として自然に生まれるものです。
それを人間は知らずのうちに取り込んでしまっているものです。
思いの発生を良く見つめて見ましょう。
その後負のペダルをこいで自分を苦しめているのは本当は自分自身なのです。
是非とも坐禅や自己に向き合う、自己の作用に向き合う修行を体験してみてください。
お住まいが遠ければYOUTUBEでも当山の坐禅会の講話を時々アップしています。
自分を明らかにすることが仏教の内容です。
人生は長いです。自分の心をはっきりさせるためには自分の心をはっきりさせる専門分野があるのです。

「仏道をならうというは自己をならうなり
 自己を習うというは自己(自己意識)をわするるなり
 自己をわするるというは 万法(出来事・事実に)に証せらるる(思考を離れ事実のみの感受状態になる)なり
 万法に証せられるというは 自己の身心 他己の身心を脱落せしむる(自他の境界が無くなり事実によって刻刻浄化されること)なり」 道元禅師

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事いただき本当にありがとうございます。座禅をしたことはないのですが、お言葉がとても心に染み入りました。自分の心は自分で解き放つしかないのですね。心がふらつかないよう調和をとること。それは、今はとても難しく思いますが、そうしたいと強く願い、まずは瞑想から始めたいと思います。本当にありがとうございました。

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