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妬みの気持ちの受け入れ方

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何回も此方でお話しをさせてもらっていますが、どうしても今の自分の状況が受け入れられずとても苦しんでいます。
私はパートで仕事をしているのですが、最近流行りの「働き方改革」で仕事時間を減らすように本社から上司に指示があるそうです。
去年までは一人で仕事を任されていたのですが、会社の「働き方改革」とやらで正社員の人が来て(支社業務を縮小して拠点に仕事を下ろす為らしいです)、二人で仕事をする事なりました。
仕事はとても楽になりましたが、今度はする仕事が少なくなり、去年は残業代で随分収入が多くなって助かりましたが、残業が出来ない分収入も減ってしまい生活設計が狂ってしまいました。
世の中の流れなので仕方が無いのでしょうが、正社員の人は同じ仕事をしても給料は倍以上でボーナスも有り退職金までどっさり有って、そう思うと自分が情けなくなります。
私も今の会社で正社員を目指してパートを16年頑張ってきましたが、これもまた会社の人事制度の変更で道が閉ざされました。お気楽なパートのつもりなら、こんなにガッカリはしなかったかも知れませんが、私は正社員になりたくて、普通パートはしない難しい仕事も頑張って覚えてきたり、仕事をしているのに、残業代をつけなかったり、一生懸命やってきたつもりです。それなのに、本当に運がないと言うか私の前世に悪い事でもしたのか、求めれば求めるほど叶わないことだらけてす。

お金の問題だけではなく、仕事内容についても悩んでいます。
今まで一人でやってきたので、全て把握してやってきたのですが、二人になったら仕事を取られてしまう感覚がどうしても有って、正社員の人に任せることが出来ません。私の存在価値が無くなる不安感が有ります。「何で私じゃなくて日の浅い正社員に頼むの?」とか。そちらの気持ちの方がお金より大きいかも…仕事がやりたい!頑張って感謝されたい!さすが○○さん!って言われたい!認められたい!会社からも仕事仲間からも!もっともっと!
私の心の持ち方なんだろうなぁ~とは思います。考え方を変えないといけない事もわかりますが、現実そう簡単ではなく、苦しさの余り周りに毒を吐いてしまったりして、また更に落ち込む事の繰り返しです。
何度も何度も同じことを言って馬鹿だと思いますが、本当に苦しくて鬱になってしまいそうなので何とか浮き上がりたいので、アドバイスお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

脱ナワバリ意識 マーキングの無い世界へ

妬みや嫉妬は物事を自分のモノ化する意識によって生じます。
物事は元々誰のものでもないので「わたくし」しないことです。
厳密には自分の意識の中の「それを所得しようとしてしまった意識」を増大させないこと・自分のモノ化させないことです。
犬猫ですら、うちの寺にまーきんぐをしてナワバリ化して自分のだと思っていますが、トサカにきた私に追いかけられています。(# ゚Д゚)🐓コケー!🐈ニャオーン
この世に自分のものはないと思いましょう。
元々最初からその職場も相手も自分のモノでも何でもない。
自分のものではないものを自分のものにしようとするから、現実がそうでなくて心が苦しくなるのです。
うちの近所の幼稚園に山田(仮名)ファミリー一族が運営する幼稚園がありますが、雇われている側がいくら頑張っても、山田ファミリーよりいいポジションになることはできません。
当然人間の世界にも「わたくしナワバリ」がちゃんとあるからなのです。
ある種人間のマーキングのようなものでしょうか。
本当に自分のものを持たない人は何をもってもものにもたれない。
自分のものを持とうとする人は、人のモノでも欲しくなるもんです。
人間自分の意識で苦しむという面倒なところがあります。
それが人間の所有意識のメンドクサイ働きです。
人間には無自覚ながらも「我」が芽生えてしまうものです。
人類は先祖代々、この我に苦しめられてきたもんです。
だからこそ、この我をしずめて我から自由になることが仏の教えです。
我の起動はスマホのアプリの起動に似ています。
坐禅は我の起動する前の心に自己を導いてくれます。
そうすることで縄張り意識も、ドロドロした自分自分した意識からも自由になります。
エスプレッソ、抹茶ラテぐらいに私意識の濃度が濃くなっていると苦しいものです。
おーいお茶、生茶ぐらい、麦茶ぐらいに薄めてみてください。
そうすることで「本当に自分とすべきもの」がだんだん見えてくるのです。
仏教の説く世界は「私意識」の薄まった自由な世界です。
あなたのスキルや仕事能力もその会社のものにさせておく必要もありません。
もっと重宝してくださる会社で力を発揮されてみるという新しい選択肢もお考え下さい。
人生は自由です。
ほぼ同じ給料であるのであれば、もっと気楽であなたを優遇してくださる場所で活動されることであなたの世界も広がっていくでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のお返事、ありがとうございます。
確かに自分が自分がの意識が煮詰まって苦しいのですね。薄めるためにはどうしたらいいのでしょうか?
仏教は生きる術を教えてくれるから好きです。が、なかなか実践出来ないのが私の悪いところです。
縄張り意識を持たないように、自由になれたらいいのになぁ~

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