坊主と乞食はどう違いますか?
挑発的なタイトルで申し訳ありません。もっとマイルドにしたかったのですが、字数の関係でできませんでした。決してお坊さんを馬鹿にしてやろうとか、悪口を言ってやろうとかいう気持ちはありません。むしろ日々尊敬しております。なのでそこの所をご理解いただけたら幸いです。
本題に入ります。
まことに、大変失礼な質問だとは思いましたが、心の中にふと思い浮かんでしまいました。
仏教書を読んでいたら、「仏教の出家者は一切の生産活動を放棄して修行に専念しなければならないので、一般の人たちからお布施をもらわないと食べていけません。」とありました。
その部分を読んだ時に浮かんだことは、「お布施をすることによって、お布施をした人にはなんのリターンがない。これでは乞食に施しをするのと同じでないか?」ということです。
もちろん、お布施をすることによって功徳が積める、物惜しみに打ち勝つことができるというのは分かっているのですが、現代人にそんなことを言ってもそれが何だよ?と鼻で笑われるでしょう。もし私が誰かに「坊主と乞食って何が違うの?笑」と聞かれたら私はなんと答えればいいのでしょうか?
ちなみに身近なお坊様(そこそこ名のある立派な人です)にこの質問をしたら「違わないんじゃね?」とのことでした。ハスノハのお坊様方はどうお答えになりますか?
大変罰当たりな質問だと思います。このことで私の身に不幸が起こったら甘んじて受けるつもりです。しかし、後学のためになんとかお答えしていただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そう、乞食であります。
時々同じことを言われるのでお気になさらず。
確かに元来僧侶を表す「比丘(びく)」という言葉には「(食を)乞う者」というような意味があります。
若い人は腹が立つ人もいるかもしれませんが、私は「ええ、乞食(こつじき)であります。ただし法を説く乞食であります。」と答えております。
法の価値を知り、それを必要として求める人に法を説き布施を頂戴致しております。
法を必要としない人にはこちらからも押し付けることは致しません。
お布施は三種類あります。
・法施(仏法を説く)
・財施(金品を与える)
・無畏施(恐怖心を取り除く)
です。
僧侶はお布施として金品を頂きますが
その前に法施・無畏施を行っているはずです。
そう考えればサービス業とも言えるでしょう。
一方的に金品を施してもらっているわけではないのです。
ただ法施・無畏施は
すぐ役に立つサービスではないので
現代人にそんなことを言ってもそれが何だよ?
と鼻で笑われてしまうのかもしれませんね。
仏教教団を後世に残したいかどうか
たとえば、天然記念物や絶滅危惧種に指定されている動物は、放っておくと滅びてしまうでしょう。
しかし、「滅んで欲しくない」と願う人間は、一生懸命に保護して絶滅させないように支援しているのです。
仏教徒にとって、2600年前にお釈迦様が悟った内容を、お釈迦様の弟子の弟子の…弟子にあたるお坊さんとその教団が現代まで伝えてくれているのは、貴重で有難いものです。
仏教教団に滅んで欲しくない、仏教の教えを後世に伝えて欲しいと「価値」を見いだす人にとって、教団を支援することは喜びになります。
仏教は、悩み苦しみを消したり制御するためのコツを説く教えです。
それを2600年にわたって伝承している仏教教団と教団に所属するお坊さん達に対して、ご支援よろしくお願いいたします。
質問者からのお礼
そうですね。
僧侶は法を解き、在家はそれに対して布施をする。乞食とは違いますね!
すっきりしました。ありがとうございます。