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死にたいです

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有り難し有り難し 55

現在うつ状態です。
自分の浪費で膨らんだ借金を返すために任意整理をしたのですが、返していけるのか不安です。

高校を中退し、アルバイトだけしか職歴がありません。
年齢も若くなく、これから先不安でたまらないです。

消えてしまいたい。何処か遠くへいなくなりたい。死にたい。
そんな思いをここ何週間も抱えています。

私はどうしたらいいのでしょう。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に休めるということを学んでみましょう

心を休めるとか体を休めるとか言いますが、現代の人たちは古来は飲んでなかった薬を飲んで体を疲弊させて、何かしなきゃといつも脳の車輪をグルグル回転させていますから、休まらないのでしょう。

一度うつという言葉を忘れてそのままの自分をみつめてみることです。
単純にネガティブな思いや負の想念、自分いじめをなくすことにつとめてみるだけでケロリンと治ってしまう人もいます。
こういうと、
いや…、自分には無理だ…、
うつはそんな簡単じゃねぇよ…、
こっちの気も知らないで…、

って、やり始めるのが実は負のペダルだったりするものです。
そこ!に気づくことからです。
心は誰かが運転、アクション、リアクションをしなければ何も起こりません。
押すなよ押すなよ!
脳が脳として腸の蠕動運動のように、自分で情報処理をしているだけです。
脳で使っているところが4丁目だとしたら、1丁目の脳で生活してみるという生き方があります。
それが禅マインドです。
人間は思考活動が中心ですからついつい頭を使う。
私自身も学生時代にシニテーモードだった時は寝ても覚めてもお茶漬け食べてもククレカレー食べても負のペダルをこぎまくっていました。そりゃシニテーシニテーなるわけです。
ある時、自分で自分を責めている張本人、真犯人が分かりました。
「犯人はこの中にいる!」
「誰?」
「あなただ!」
「俺…?」
「そう。あなただ!」
「…俺?ちがうよ!」
「じゃ、あなただ!」
「え?あたし?やってない!」
「じゃぁ、あなただ!」
「じゃぁってなんだよ!」
「ホントはお前なんじゃないのか?」
「え?私?」
「どうなんだ!?」
「私…かも!」
何と犯人は名探偵コナン君のおかげで自分だということが分かりました。己難。
私は当時、何かがあれば人のせいにしたり、人の事を悪く思ったり、自分の事も悪く思ったりと、結局その負のエネルギーペダルをこぎ続けていたのは自分だったのですぢゃ!
(; ゚Д゚)?俺!?自分?
自分の脳内の負のペダルをこげるのは自分しかいません。
それを知ってから自分いじめを止めました。
人からチョー絶悶絶激おこぷんぷん丸で悪口を言われても、私自身がその言葉で負のペダルをこがなくなったのでマトリックス1のネオのように「無駄だ✋」仏状態。
これをきっかけに禅を学んでみてはいかがでしょう。
今、負のペダルを休めていたはずです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ふと腰を下ろして一息ついて

拝読させて頂きました。
毎日のご生活の中で不安を感じておられ病を抱えながら今生きておられるのですね。あなたのお気持ちをこころよりお察し申し上げます。
あなたがおっしゃるように生きていくことは不安がいつもありますよね、先のこともなかなか見通しがつかないでこれから先をどうして生きていけばいいのかと思ってしまいますよね。
私もお寺で暮らしながらもやはり先々の不安を覚えますね。TVや新聞を見ても流れてくる報道には不安になることが多いですし、一つ一つのニュースもこれから世の中どうなってしまうのだろうと考えてしまいますよね。ですから私達生きている人間の世界では常に不安のなかにあるのです。

とはいえ本来あなたがこの世に生を受けて沢山の恵みの中で生かされていることは事実ですし、あなたが生きていらっしゃること自体がそもそも尊いことです。私達は様々なめぐり合わせの中で与えられ育まれて生きています。あなたがどこにいても必ず日の光は降り注いでいますし、雨の恵みから生き物が育っていきその命を頂きながらあなたは存在しています。
それは誰にどういわれたからではなくて自然の恵みの中でそう生きているのです。

病のことが心配かもしれませんが、ひとまずゆっくりとこころも身体も休めてみてもいいのではないでしょうか?或は何日間かちょっと旅行に出掛けてみて海や山や川や草原を訪れてみてもいいのではないでしょうか?

昨日私は研修で群馬県のみなかみ町に行きました、温泉場ですからそれほど人もおらずに山々の緑美しく渓流が流れて自然が溢れていました。時間があれば尾瀬に行こうかと思いましたが今回は予定がある為やめましたがまた訪れたいと思いましたね。

私達人間の考えることや世界は本当に些細なものです。その中であれこれと考えていると袋小路におちいってしまい出口が見えなくなってしまいます。

それは私達が勝手に作り出したものですからそこからすこしでも抜け出すことも生きる中ではとても必要かもしれません。

ほんの少し自然の中でも腰を下ろして見回してみると改めて自分の存在を見つめ直すこともできます。もし宜しければどこか気の向くままに訪れてみて下さいね。そして気持ちを楽になさってみて下さいね。

繰り返しですがあなたは尊い存在です。与えられ恵まれて生きいますからね。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

本当に休めるということを学んでみましょう

心を休めるとか体を休めるとか言いますが、現代の人たちは古来は飲んでなかった薬を飲んで体を疲弊させて、何かしなきゃといつも脳の車輪をグルグル回転させていますから、休まらないのでしょう。

一度うつという言葉を忘れてそのままの自分をみつめてみることです。
単純にネガティブな思いや負の想念、自分いじめをなくすことにつとめてみるだけでケロリンと治ってしまう人もいます。
こういうと、
いや…、自分には無理だ…、
うつはそんな簡単じゃねぇよ…、
こっちの気も知らないで…、

って、やり始めるのが実は負のペダルだったりするものです。
そこ!に気づくことからです。
心は誰かが運転、アクション、リアクションをしなければ何も起こりません。
押すなよ押すなよ!
脳が脳として腸の蠕動運動のように、自分で情報処理をしているだけです。
脳で使っているところが4丁目だとしたら、1丁目の脳で生活してみるという生き方があります。
それが禅マインドです。
人間は思考活動が中心ですからついつい頭を使う。
私自身も学生時代にシニテーモードだった時は寝ても覚めてもお茶漬け食べてもククレカレー食べても負のペダルをこぎまくっていました。そりゃシニテーシニテーなるわけです。
ある時、自分で自分を責めている張本人、真犯人が分かりました。
「犯人はこの中にいる!」
「誰?」
「あなただ!」
「俺…?」
「そう。あなただ!」
「…俺?ちがうよ!」
「じゃ、あなただ!」
「え?あたし?やってない!」
「じゃぁ、あなただ!」
「じゃぁってなんだよ!」
「ホントはお前なんじゃないのか?」
「え?私?」
「どうなんだ!?」
「私…かも!」
何と犯人は名探偵コナン君のおかげで自分だということが分かりました。己難。
私は当時、何かがあれば人のせいにしたり、人の事を悪く思ったり、自分の事も悪く思ったりと、結局その負のエネルギーペダルをこぎ続けていたのは自分だったのですぢゃ!
(; ゚Д゚)?俺!?自分?
自分の脳内の負のペダルをこげるのは自分しかいません。
それを知ってから自分いじめを止めました。
人からチョー絶悶絶激おこぷんぷん丸で悪口を言われても、私自身がその言葉で負のペダルをこがなくなったのでマトリックス1のネオのように「無駄だ✋」仏状態。
これをきっかけに禅を学んでみてはいかがでしょう。
今、負のペダルを休めていたはずです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
こころも身体もゆっくりと休みたいのですが、横になるとどんどん不安な事を考えてしまうのです。
寝る暇も無いくらい働かなくてはいけないのではないか、そもそも職に就けるのか、今のアルバイトを休むわけにもいかず、いつも心が休まりません。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ