友達が信頼出来ません
人間関係で悩んでいます。
自分は、周りから見れば友達が多いように見えるそうですが、実際は常に孤独感に苛まれています。
普通に話せる程度の友達はいますが、心の底から信頼できる友達が一人もいません。
自分を信用してくれて、頼ってくれて、
心配してくれる人もいますが、彼らの言葉が嘘にしか聞こえません。
小さいときから虐げられて来たせいか、誰にも愛されることがなく、また愛されるべきでは無いとも思います。
そんな自分が誰かに友達だと思って貰えるわけがないし、それに、誰かと話していても、その後ろでなんで楽しんでる風を装って関係を保とうとしてるんだろう、と客観的に自分を見てしまいます。
こんな風に考えてしまう自分はおかしいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私も高校生の時は病みました
高校生の時、どうもまわりの友達と感覚が合わずに信頼してはいけないような不安に襲われていました。自分に相談してくれる人はいても、自分から相談する気にはなれず、全て本を読んで、その中の思想哲学と相談していました。やっぱそうだよねー、あいつらの方が間違ってるよねー、他に同じ考えの仲間いないけど…って。
一番ひどい時は意味もなくレジの店員さんをニラらみつけていたなぁ…もの凄く黒歴史です。でもね、それはいつまでも続くものではありませんでした。続いているならこんな所で回答しちゃいません。だからきっと大丈夫ですよ。若いうちはそういう時期があって良いんです。
さて、せっかくですからちょっと仏教の話を。
六根(ろっこん)と六境(ろっきょう)という思想があります。
六根とは眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん、皮膚の感覚)・意(い)の身体の内的な感覚器官のこと。
六境は色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)という外的な情報のことです。
難しい話ではありません。要するに外からの色情報と内側の眼がパチッと反応して見るという行為が成立する、外から香り情報と内側の耳がパチッと反応して聴くという行為が成立するというごくごく当ったり前の話です。
でもですね、人はどっちか1つばかり意識しがちで、もう片方は忘れがちなんです。
あなた、「なんで楽しんでる風を装って関係を保とうとしてるんだろう、と客観的に自分を見てしまいます」とおっしゃっていますけど、ソレ、あなたの主観ですから。冷めているだけで全然、客観的じゃありません。あなたの六根が『判断』しているだけですよ。そういうのを煩悩と言うのです。自分で自分を苦しめる何かの正体です。
別にだからサクさまがおかしいというわけではありませんけどね。程度の差こそあれ、みんなそうだからわざわざ六根と六境なんて名前つけて教えを広めたわけですから。でもね、逆にみんなに克服してほしいから、そうやって広めたのも事実なんです。
あぁ、あなたにはまだ伝えたいことがあるけど字数が足りない…ぜひこちらの心の平穏DNAの回答もご覧いただければ幸いです。長くなって申し訳ありません。
http://hasunoha.jp/questions/3597
質問者からのお礼
大慈様にも似たような経験があったのですね。
それを聞いて自分だけじゃないんだ、おかしい訳じゃないんだな、と安心しました。
と、同時に自分の六根が勝手に判断してるだけ、というのを聞いてなるほど、と思いました。
六根と六境のどちらか片方を忘れがち、確かにそうですね;。
お返事ありがとうございました。