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仏心とは?

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仏心ってどんなものですか?
仏様のようになりたいというのはどういうことでしょうか?
今までかんがえたことがありませんでした。

自分らしくというのは 簡単なようですが、
私の場合 単なる自分勝手で我侭なだけのようで
何よりの証拠に楽しくありません。
自分らしく生きている人って 基本的には自己満足できているように思います。

そこで 生き方にも目指すものがあるとズレの修正がきくような気がするのですがどうでしょうか?
例えば仏様のようになりたいと考えた場合、仏様ってどんな人、どんな存在か 普段身近ではないので教えてもらいたいと思います。

身近な目標としてよく母のようになりたいとか先生のような人になりたいとかありますが、私の場合 母は反面教師で絶対なりたくない見本でしかありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間 と 仏 の違い

「仏となるに簡単な道がある。自分を苦しめるもろもろの悪を心の中で生み出さず、人間的な良し悪しに執着する心なく、一切存在の為に憐れみの心を深くし、先を敬い、後を憐れみ、どんなことも嫌う心無く、求める心無く、憂いの心もなく、その思い自体もない静かな心。これを仏心といい、仏という。」(道元禅師 『正法眼蔵 生死の巻』より意訳)
素晴らしいですね。まさに菩提心の眼ざめです。
今までは本当にご苦労を重ねられました。今回の心境の変化、大変うれしく思います。「煩悩の泥多くして蓮の花、大なり」
苦しみを持てば持つほど幸せややすらぎ、菩提を求める心も大きいのです。
その心こそ仏の灯明、菩提心、一条の光、一生宝になさってください。
私も苦しみのどん底から這い上がりたいと思ったその日からずっと保ってきています。おめでとうございます。
〇人間の自我、エゴ、わがまま、欲を優先、先行させた生き方を人間的と言います、
 自我やエゴ、我がまま。欲は人間を苦しる恐ろしいものであることを悟り、それから離れようとする生き方を仏道的、と申します。
〇簡単に言うと仏になるとは、自分中心の心を無くし、悩みや苦しみを無くし誰にとってもイイ人、やさしい人になるということです。
〇神様にはなれませんが、仏様にはなる事ができます。
〇仏とは、人間的な我欲を優先させないので、迷いや苦しみから縛られなくなります。
〇仏様とは、自分を深く学び慈悲と智慧の力で人の心の苦しみを取り除ける人です。
〇人が作った法を、人法といい、人が作ったものでないものを仏法といいます。
〇よって、自分サイドを主人公、主流とせず、自分も大自然の一員なのであるから、天地自然サイドを主流とした生き方をすると心はエゴに縛られなくなり安楽です。
さらなる具体的な質問をお待ちしています。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

菩薩として

空海花さま
なごみ庵の浦上と申します。
今回はとても難しい問いですね。

仏心の前に仏教についてです。
仏教とは「仏さまが説かれる教え」であると同時に「仏になる教え」でもあります。
つまり仏教者のゴールは、方法は様々ですが「仏になる」ことです。

仏になることを目指す者を「菩薩」と言います。
観音さま、お地蔵さま、弥勒さま。みんな正式には「〜〜菩薩」というお名前です。
仏を目指しているのですから、私たち僧侶や仏教者の大先輩です。

菩薩さまにはそれぞれ個性がありますが、共通点もあります。
それが「四弘誓願(しぐぜいがん)」、つまり4つの目標です。

1:衆生無辺誓願度…全ての人々を救おう
2:煩悩無尽誓願断…全ての煩悩を無くそう
3:法門無量誓願学…仏の全ての教えを学ぼう
4:仏道無上誓願成…仏の道を究め尽くそう

いかがでしょう、どれか達成できそうなものはありますか?
私には、どれも達成出来そうにありません。
菩薩の目標を達成出来ないのですから、私は仏になることは出来そうにありません。仏ならぬ私には、本当の意味で空海花さんに「仏心とはこういうものですよ」とお伝えすることは出来ません。

でも、遥か遠い目標であっても、仏になることを願う者、つまり菩提心を抱く者は菩薩です。
自分の限界を知り、自分の至らなさに気付く。菩薩さまや仏さまのように生きることなど、到底無理なのだと気付かされる。
でもそんな自分を引き受けて生きる覚悟が定まった時、私たちはひとつ強く、ひとつ優しく、菩薩としての道を生きていくことが出来るのではないでしょうか。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

質問者からのお礼

丹下様
毎回ご回答ありがとうございます。
前回の葛藤の巻について何度も読み直しています。

今回のご回答では 仏心を手に入れるのは
我を失くす、自分の存在は自然の一部、ということだと思われます。
少し難しいのですが、現時点の私の解釈では 
極論ですが 相手が夫であれ母であれ、どんな関係であっても 
仏心になるということは好き嫌いという判断をせず、感情を込めず 
淡々と対応するということでしょうか?

夫の口癖は<ないものはない>でした。
私は<ないもの(=必要なもの)は知恵を出せば手に入るはず>という考え方だったので
とても反発していました。

私は嫌いだったら距離をとり 会わなければいいと今まで思っていましたが
実際 夫が私に対してそれを実行された時に本当に参りました。
話し合いも同時に拒絶されたのでどうしようもなく 夫の<ないものはない>を実感しています。

さらに 最悪なのは 夫が私に離婚を自分から行動に移してこないので 
言葉は悪いのですが生殺しです。
私も母を見捨てる生活を始めることができません。

私にとっての喜び、楽しみを与えてくれる人が
今後 夫でないことは本当に残念です。
もう少し時間がかかりそうです。
誰か夫に代わる人がいれば 悲しみや寂しさから救ってもらえるだろうと思うのですが、
そういう期待をするのはやめました。自分の寂しさや悲しみは自分で考えるしかないようです。

自分の心を守るためには 他人に期待せず 関心を持たないということでしょうね。
ありがとうございました。

丹下様
何度もご回答ありがとうございます。
私の執着が強いのだと思っています。
もはや夫への愛情ではなく 自分自身への後悔をどうにかしたい。
どうにか修復したい、自分のためにです。

最近 写真を整理していて またも後悔の念がさらに強くなってしまっています。
考えないようにしているのですが 本当にダメです。

「仏教全般」問答一覧

仏教とは?

こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。

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最後の言葉「ありがとう、また会おう」

長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

有り難し有り難し 12
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初めて知った事に対して、怖いです

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?

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