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仏教的なものを全て断っても生きますか?

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有り難し有り難し 48

お坊さんに質問です。
お坊さんは禁欲的な生活をし、
少なからず仏教的なものを、
例えば瞑想や仏教に関する聖典などをお読みになられたり、
それを実践したり修行したりしていると思います。
そこで質問です。
仏教に関する全てのものを禁じられて、社会で生きなければならない、
となれば
お坊さんは自ら命を断ちますか?
意味のわからない質問かもしれません。
しかし、とても疑問なのです。

2019年8月11日 18:52

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

普通の話

ひとくちに仏教とは言ってもそれぞれなのですが、仏教って結局のところ何なんだと問われたならば、

【諸悪莫作】わるいことはやめようね
【衆善奉行】よいことはすすんでやろうよ

私は、この二つの言葉に極まると思うんですね。
ところで、これって仏教ならではの話でしょうか。
結局のところ仏教が伝えたいのは、いつでも、どこでも、誰にでも通じる真実、つまり文字通り【普通】の話です。

万が一、これすらも仏教的だから禁止だ、実践した者は厳罰に処してやるというのなら、わざわざ自殺なんかせずとも、そのうち誰かに後ろからぶっ刺されて身ぐるみを剥がされるような世の中になっていることでしょう。

もし本当にそんな世の中になれば、私は僧侶としても一社会人としても徹底的に抵抗すると思いますが、本当の本当に万策尽きたときは、あるいは自らの命をかけて抵抗の意を表すかもしれませんね。非暴力不服従を貫き、焼身供養をしていったチベットの仲間たちのように。

2019年8月11日 19:58
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有り難し
おきもち

となりのトトロの世界のような山奥の田舎の小さな小さなお寺の住職をしています...

心臓を刺されるのと一緒。

考え方ひとつで自身のいのちを決めるのは
私にはできません。
自分自身のいのちだからといって
自分のいのちを絶つか絶たないか
意志ひとつで決める権利が、私たちにあるのでしょうか?

端的といえば端的ですが
私は、仏教を”生きるための教え”として
見つめています。

となれば
仏教的なものをすべて断て、と言われるのは
「死ね」と言われるのと同じことですから。

死んでしまったら生きることはできません。

心臓を刺されても生きますか?
と聞かれて何と答えればいいのでしょう。

逆に言えば
私が生きている以上は、それ自体が仏教です。

生きていることが仏の道なのです。
私が坐禅をやめても念仏をやめても
教えに背いても
心臓が動いているうちは、どうあがいても
それが仏の道なんだということにしています。

盲信と言われれば盲信です。
でも考え方ひとつで自身のいのちを左右させるような
態度に比べれば、ずっとましだと思います。

意味のわからないご質問だとは思いません。
もし絵踏みしろと言われたらどうするんだろう。
私も自分自身への疑問が消えないでいますから。

「自分自身のいのちだからといって
自分のいのちを絶つか絶たないか
考え方ひとつで決める権利は私たちには無い。」
それなのに
『生きたかったけれどあの人は自らいのちを絶ってしまった。
死にたいけれど今も私はこうして生きている。』
そこにはただ苦しみあえいで
なすすべもなく、生き死にの決断をせざるを得ない私たちという現実がある。

そうである以上、
考え方ひとつで「こうであれば生きる、こうであるなら死ぬ」という態度は
取りたくない。
そう思います。

2019年8月11日 22:24
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有り難し
おきもち

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仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 49
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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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徳について質問です。 徳を積む方法を知りたくて、動画サイトで、ある経営者さんの徳を積むことについてのお考えを聞きました。 ご本人に直接伺うことができないので、お坊さん方のお考えを聞かせて頂きたいです。 その方は、周りの人が笑顔になるように行動すればいい、周りの人を不快にさせるような行動はダメというような事を仰っていました。 故意に人に不愉快な思いをさせるのが良くないのは わかりますが、わざとでない場合はどうなるのでしょうか? 私は外斜視で、手術を受けたものの矯正できるギリギリ限界まで筋肉を切除しても治りませんでした。 電車に乗っている時など、自分では正面を見ているつもりでも、気が付くと向かい側に座っている人から凄い顔で睨まれていたりして ⁇ となり、後になって「あ、斜視で知らない間に私の方から相手の人を凝視したと思われたんだ」とわかるのですが、知らない人に「私、斜視なんです。あなたを見てたわけじゃないんです」と言うのも変ですし。 でも、人を不快にさせたのは事実なわけですから、この場合 私の徳はどうなるのか知りたいです。 人前ではなるべく下を向くようにしていますが、時々忘れて このようなことになります。

有り難し有り難し 22
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