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子供の人数

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有り難し有り難し 11

私は、夫と子供一人との三人暮らしです。
夫は「この子が万が一死んでしまったら立ち直れないから、もう一人子供を設けるべきだ」と言います。
私は、第二子が第一子の代わりになるとは思えません。その理由で子供をもう一人設けるのはどうなの?と思います。
夫と意見が分かれ、しばしば喧嘩になります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実際に亡くなってしまったら誰を責めるのでしょう。

ケンカというのは正義を建てて相手を責めている姿。
そういう方向へ心を向かわせないことが育む姿です。
これを受けて、でも…、から始まる誰か責めをやっている心の行為に目を向ければいいのではないでしょうか。
お子さんを授かっていない方もおられます。
自身の意思で子供を持たない方もいます。
もしも、ひょっとして、まさか…、
それは空想、妄想、非現実。
心の向かうべき方向はそっちではありません。
優先するべきは現実の親子の愛ある関係です。
実際にお子さんが亡くなったら誰を責めるのでしょう。
実際にお子さんが亡くなってもいないのに誰を責めているのでしょうか。
そういう負の心、ネガティブなチクチク意識が夫婦仲も親子間をも破壊する人間を苦しめる煩悩、妄想、貪瞋痴と言われる思いです。
それらはみな自我・我見・我の意識が元になっています。
それを離れた心に自身を向かわせることで人は苦しみから自由になります。
無我とは空っぽでも自分が無くなることでもなく、常に先立てている自分ファーストな心を手名付ける上でも大事なことです。
世界中が今、誰かのエゴで苦しめられています。
エゴを卒業するべきなのは仏教徒だけの義務ではありません。
人類全体がマスターすべき最低限の心がけであるという事なのです。
我があればあるほど、ケンカや争いの種になります。
ケンカや争いがいかんのではありません。
きちんとした心の向かう方向性を持っているかいないかが大事だと思います。
そうすれば、ケンカしたって良い方向へ心が向かうからです。
だから仏教では悟りよりも菩提心が大事なのです。
菩提心とは心の向かう先の最高のところ。
この上ない心を目指す心。
自分も相手も救う心。
あなたもご主人もお子さんをも救う心。
ケンカしても仲直りしてさらに人間性の向上を求めるようになるこころ。
本当におさまるべき心におさまるようになるこころ。
あなたがそういう心をご主人がどうであれ、持つことがあなたの人生の向上のはじまり。仏教の始まりなのです。自分の永遠のパートナーはわがこころ。
このやっかいなわがこころをこそお釈迦さまハンドで転がしてほんわかふわふわもちもちまるな食感に仕上げるクッキングが人生の自身の調理法です。相手を憎むもわが心。本当は自分とケンカしているのです。
それでも話し合うべきこと、正すべきことは正すべきです。それは別物です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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