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満たされるとはどういうことですか?

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有り難し有り難し 20

私は全てを失いました。夢も希望も愛するものも全て失いました。
一瞬楽しいことがあってもまたすぐに虚無が私を取り囲みます。

満たされるってどういうことですか?
誰が教えてくれるんですか?
何で満たせばいいんですか?
何が私を満たしてくれるんですか?

美しいものを全て失って、嫉妬や欲ばかり詰まったこの命。捨ててしまっても良いと思いませんか?
私の人生は五年前にすでに終わってしまった。それからの人生は意味の無い後日談のようなものです。終わらせるべきです。こんな無意味なことは。

それともこの救いようのない命を満たせる圧倒的な福音がこの世にあるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたくしの個人的な意見ですが

若い頃は自己啓発本とか心理学系とか哲学系の本を読んでいました。
外の脳内スキルを集めることでいつか何か満たされるのではないかと思って永遠に終わらないものを集めていました。
愚かにも「外に」求めていたのです。
それよりも内なる自身のディスプレイに映し出されることに目を向けなければいけなかったのです。
この自分の身心を画面、ディスプレイと喩えます。
五感、六感を通して映し出されることが「自己の体感世界」です。
お釈迦さまも、修行者たちも皆ここを見つめられたのではないでしょうか。
昔のお坊さんたちはみんな修行の方法がわからなくて苦労したのです。
お寺に行けば何か得られるのではないか。
行ってみても見つからなかった人もいました。
霊雲レイウン禅師という方は桃の花を見た時に自己(盛んな自己意識)を忘じました。
香厳という坊さんは石が竹にあたった時に悟りました。
お釈迦さまも明星をみた時に悟りを得られました。
悟りって仏教界では特殊な事、霊的な事、常人には到底無理なことのように誤解されていますが、禅宗では理知的に説かれています。いたってシンプル。日常誰の上にでもある。
石ころが当たった音はどこで鳴ったでしょうか。この身をおいて他にありません。
桃の花が映し出されたところはどこでしょうか。その香りが生ずるところのはどこでしょうか。
星を見る。星が映し出される。我を忘れて星そのものになるのは誰のいかなる様子でしょうか。
みんなこの自己という身心ディスプレイに映し出された自己の現われ以外の何ものでもありません。
極端な話をすれば、夏にワンサカ現われる虫🐛🐛🐛たち。
なぜ、全く平気な人が居るのでしょうか。
なぜ、過剰に問題にする人が居るのでしょうか。
同じもの、同じことを体感しているのに、どうしてある人たちは満たされず、ある人たちは満たされるのでしょうか。
そこにヒントがあるのです。
「物事に出会っている時にはまだ自分流の考え事が介入されない状態がある。」
これを何十回と唱え、念じて、自分の身心ディスプレイにたった今映し出されていることに目を向けましょう。
今日、いま、ここで出会っていることはこの次に出会えることは永遠に無い事なのです。
どうして、今のことをよく見ないまま満たされずに私たちはつい遠くを見てしまうのでしょう。
あらゆるものは幸せのknockをしてくれているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。私は絶対の答えを遠くに求めていたのかもしれません。

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