満たされるとはどういうことですか?
私は全てを失いました。夢も希望も愛するものも全て失いました。
一瞬楽しいことがあってもまたすぐに虚無が私を取り囲みます。
満たされるってどういうことですか?
誰が教えてくれるんですか?
何で満たせばいいんですか?
何が私を満たしてくれるんですか?
美しいものを全て失って、嫉妬や欲ばかり詰まったこの命。捨ててしまっても良いと思いませんか?
私の人生は五年前にすでに終わってしまった。それからの人生は意味の無い後日談のようなものです。終わらせるべきです。こんな無意味なことは。
それともこの救いようのない命を満たせる圧倒的な福音がこの世にあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
わたくしの個人的な意見ですが
若い頃は自己啓発本とか心理学系とか哲学系の本を読んでいました。
外の脳内スキルを集めることでいつか何か満たされるのではないかと思って永遠に終わらないものを集めていました。
愚かにも「外に」求めていたのです。
それよりも内なる自身のディスプレイに映し出されることに目を向けなければいけなかったのです。
この自分の身心を画面、ディスプレイと喩えます。
五感、六感を通して映し出されることが「自己の体感世界」です。
お釈迦さまも、修行者たちも皆ここを見つめられたのではないでしょうか。
昔のお坊さんたちはみんな修行の方法がわからなくて苦労したのです。
お寺に行けば何か得られるのではないか。
行ってみても見つからなかった人もいました。
霊雲レイウン禅師という方は桃の花を見た時に自己(盛んな自己意識)を忘じました。
香厳という坊さんは石が竹にあたった時に悟りました。
お釈迦さまも明星をみた時に悟りを得られました。
悟りって仏教界では特殊な事、霊的な事、常人には到底無理なことのように誤解されていますが、禅宗では理知的に説かれています。いたってシンプル。日常誰の上にでもある。
石ころが当たった音はどこで鳴ったでしょうか。この身をおいて他にありません。
桃の花が映し出されたところはどこでしょうか。その香りが生ずるところのはどこでしょうか。
星を見る。星が映し出される。我を忘れて星そのものになるのは誰のいかなる様子でしょうか。
みんなこの自己という身心ディスプレイに映し出された自己の現われ以外の何ものでもありません。
極端な話をすれば、夏にワンサカ現われる虫🐛🐛🐛たち。
なぜ、全く平気な人が居るのでしょうか。
なぜ、過剰に問題にする人が居るのでしょうか。
同じもの、同じことを体感しているのに、どうしてある人たちは満たされず、ある人たちは満たされるのでしょうか。
そこにヒントがあるのです。
「物事に出会っている時にはまだ自分流の考え事が介入されない状態がある。」
これを何十回と唱え、念じて、自分の身心ディスプレイにたった今映し出されていることに目を向けましょう。
今日、いま、ここで出会っていることはこの次に出会えることは永遠に無い事なのです。
どうして、今のことをよく見ないまま満たされずに私たちはつい遠くを見てしまうのでしょう。
あらゆるものは幸せのknockをしてくれているのです。
質問者からのお礼
ありがとうございました。私は絶対の答えを遠くに求めていたのかもしれません。