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悪意ある言葉に傷ついています

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有り難し有り難し 17

初めまして。
フランス語を勉強している大学生です。
私はシャンソンが好きで、たまに動画サイトで聴いてフランス語でコメントを残すのですが、
この間有名な曲に「日本人です、この曲好きです、出会えてよかった!」という意のコメントをしたところ
沢山の「いいね」とともに、人種差別的なコメントがちらほらとついていました。
「あなたにはフランス語は難しいんでしょう」というようなアメリカの方からのコメント、それに対する「日本語や中国語の方が難しいかもしれないよ」というコメントなど(こちらは皮肉っぽい言い方でした)

それに対して「今フランス語を勉強しているのであまり上手くなくてすみません。コメントありがとうございます」
と返信したところ
それに対してもあまり良くない言い方で指摘のコメントが来ました。

フランス語のアクセント記号等も十分注意していたし、文法的に破綻している文ではなかったと思います。
確かに私のフランス語は本当に未熟です。私の書いた文もおかしかったのかもしれませんが、
ただこの曲が好きだと伝えたかっただけなのに…
とても悲しい気持ちになりました。
評価してくださった方々には申し訳ないですが、コメントも結局消してしまいました。

本当に久し振りにこんなに傷ついています。
アルバイト先の留学生に対する差別を目の当たりにしても、胸が苦しくなります。
人種差別に限らず、悪意のあるようなこと、又は傷つくと分かっているようなことを平気で言える人間がいるのですね。
ますます自分に自信がなくなります。

これからなにか人の役に立つために働くとしたら、今迄以上に辛い思いをするのかもしれません。
世の中が怖いです。
人の支えになるどころか自分が折れてしまいそうです。
心の持ちようが分かりません。
どのように考えていきていけば良いのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悪意の挨拶には善意の仏法の挨拶で

昔の中国でもそのような話がありました。
「お前のような南蛮の田舎もんに仏法なんぞわかるわけないわ。」
「いいえ。仏法に南も北もありません。」
「(…ん!こいつは見込みがある。)」

真剣勝負のやり取りの場ではおもちゃの刀では太刀打ちできません。

人間性の低い人たちを相手にしている場合はより高い人間性で「示す」あるのみです。

料理も音楽もこっきゅおを越えて上質なものは上質です。
いくらフランス料理でも冷めたスープは美味しくないです。
国に優劣はありませんが、血の通った暖かい心で冷めた人間性を温めてあげる必要があるかもしれません。
まぁ、そういうことを言う人たちには通じないものですが。
それでもそういう言葉現実世界でも飛び交っているのが現実の世の中ですからこそ、あまり真に受けずにさらりとかわすことです。
75億の人間がいるわけです。
マトモな人間はひと握り。
その75億の人間の食べる料理も日によって酷いものもあればよいものもあります。
料理はおいしく頂戴することが大事です。
味としてはイマイチでも、上手に食べることもできます。
反対に、最高のクオリティであってもまずい心で食べれば美味しくなくなることがあるはずです。
そこを問題にしてみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

久々にまたここに戻ってきました。
お礼のコメントをしておらず、申し訳ございませんでした。

あれから紆余曲折あれどなんとか社会に出て、理不尽な経験をすることも多少ありました。
どれだけ心を尽くしても、どうしても分かり合えない人もいます。かと思えば、互いの思いやりが響き合うようなやりとりができることもあります。
なんというか…よい意味で「真に受けすぎない」ことができるようになりました。

一人一人違う人間同士、いくらこちらが悩んでもどうしようもないことだってありますよね。

イマイチな料理も美味しい料理も、それなりに上手に食べることができる、という方が毎日が楽しそうかなと思っています。

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