悟りを開くと、余計苦しみが増しませんか?
こんにちは。
色々と、仏教を学ばさせて頂いています。
ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。
自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。
しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか?
テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。
児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。
災害で一夜にして家族全員を失った者。
世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。
もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。
Happyな事は、滅多にニュースになりません。
悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを
居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。
私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。
人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。
仏教者失格だな、と自分で思います。
悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか?
悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか?
抽象的な質問ですいません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
考えさせられます
確かにそうかもしれません。
世の人々の声無き声、時には断末魔さえも汲み取っていかなければいけない時もある、それが僧侶の道なのだと思います。
でも、それが私に託された使命、苦しくてもこの世で担ったひとつの役割だとするなら、「それ」を受け入れるしかないと考えます。
そしてそれは悟る悟らないにかかわらず、いち修行者として、今後もそういった世の中の汚泥に染まることなく、且つ逃げることなく、正面から立ち向かい、一所懸命に考え、ゆくゆくは僧侶としての血肉に変えていけたら良いなと、思うところであります。
昨今の目を背けたくなるような事件・事故・災害を見聞きすると、私に何ができるのだろうと、よく自問自答をします。私一人がこの世に及ぼすことのできる影響力は微々たるものかもしれませんが、自分なりの力と切り口で、身近な人達だけでも、今日を身軽に過ごせてもらえるように、今後も教化の活動を続けてまいります。
衆生病めば則ち菩薩も病み、衆生の病い愈ゆれば菩薩もまた愈ゆ
こんにちは。亀山純史と申します。
「衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。」(「維摩経」)
これは、「たとえば、裕福なる者のひとり子が病気になれば、そのためにその子の父母もまた病気になるのであり、その子に病気がなくならない限り、その子の父母も苦しむのです。それと同じように、菩薩は生きとし生けえるものをひとり子のように愛しています。生きとし生けるものが病んでいる限り、菩薩も病んでおり、生きとし生けるものに病気がなくなれば、菩薩にも病気がなくなるのです。」と説かれています。そして、菩薩におけるこのような病を起こさせている基にあるのは、「慈悲」だと説かれています。悟りを開いていない私たちからすれば、到底真似のできることではありません。でも、少しでもこのような人になれるようにと願うところに、仏教としての生き方があるのだと思っています。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
普伝院TAIKEN様
色々と理不尽な事故や事件のニュースは絶えませんね。
もういっそテレビもラジオも無い世界に行きたい位ですが、
やはり逃げてはいけないんでしょうかね。
かと言って私自身、出来る事も殆どありません。
せめて地に足をつけて、柔和質直を心がけ、
身近な者だけでも和顔愛語で和ませるよう心がけようと考えてます。
心中を率直に語ってくださった事、感謝致します。
亀山純史様
世界中の人の苦悩が無くならない限り病が癒えないなんて、
仏や菩薩は大変なものを背負い込んでるんですね。
もしかしたら、そんな大変な苦悩を抱えながらも、可能な限りの衆生を救いながら
快活に生きていくのが悟りなのかも知れませんね。
維摩居士の病が癒える事はあるのでしょうか。
貴重なご示唆、ありがとうございました。