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信仰心

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私は人づてではありますが、ある宗教と出会い信仰しています。お坊さん方は、生まれがお寺で跡を継ぐ方もいらっしゃると思いますが、自らお坊さんを志されたお坊さんに質問したいです。何故その宗教を信仰心しようと思われたのか?その宗教を信仰して何か心や考え方が変わったのか?その宗教の素晴らしいところはどこですか?
私は宗教に興味があります。それぞれの宗教には、神様や仏様がいらっしゃり、様々な考え方や人を導く素晴らしさがあると思います。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

絵空事の神や仏ではなく自身の中にあるその【働き】の発見。

神や仏とやらが最初は絵空事かと思っていたら、ちゃんと自分のうちに発見できたからです♡
我が強いと見えてこない。坐禅や仏道修行でエゴエゴした心をしずめればちゃんと確かな手ごたえがあったので❝目覚め(◎_◎)✨❞まちた。
学生時代にシニテーとか思ってた時期がありましたが、たまたま家がteraということもあって、ざっくり仏教は学んでいたのですが全然刺さりませんでした。
シニテー💀modeになってからは、日々陰鬱な状態が続いていました。ある時、心底救われたいと思ったのでしょうかね。本当はシニテー人なんていないんだと思いますよ。そりゃ、心は凹んで暗いことを思ったり口にするでしょうが、それも救いを求めている姿なのです。本当に確かで手ごたえがあって嘘じゃなくて本当の安らぎややさしさこの上ないシラフさとでもいいましょうか。もっと苦しみの無い生き方を探しているの姿ではないでしょうか。私も実効性のある、絵空事の神様や仏様などではない、確実で絶対的な救いを求めていたのでしょう。
ヘンクツでパンクでROCKな私には「ホトケサマ」とかいう言葉にすらアレルギーがありました。
死後の世界を堂々と語る坊さんとか信じませんでした。
「は?(# ゚Д゚)みたのかよ!」
「(# ゚Д゚)お前の言うホトケサマって何じゃ。」
「(# ゚Д゚)神様みたく同じように仏様仏様言うな!」
回答文字数1000字では書ききれないこんなメンドクサイ人間でしたからこそ、ウソや絵空事は嫌いでした。
シニテーと思っていたはずがあるとき、お命様とのお別れセレモニー会場(トイレ)に貼ってあった悟った坊さんのカレンダー(井上義衍…臨済宗・曹洞宗で印可証明をもっている❝やり抜いた人❞)がトイレに貼ってありまして。いつも目にしてはいたのですが、初めて意味が伝わってきたのです。最初は何だか意味が分からんかったのですが、シニテーになると心が繊細になって自分自身に目が向くのでしょうね。自分が「やっていること」や身心というディスプレイに映し出されていること=現れていることに眼が向くようになったのです。
ああ、神様とか仏さまって…私の今授かっている無色透明なままの…しゅびびび!
それまでは単なる学問や勉強だったのですが、はじめて自分のこととして受け止め始めるようになったのです。そこからは学ぶことが楽しくて、楽しくて。ところが修行道場で…つづく!

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私の場合は縁というか阿弥陀様のお導きとしか言えないですね。
寺に生れながらも飛び出して外で働き結婚もしてそのままその人生を歩む予定だったのですが、全く想定外のことが起こり坊さんになり今に至ります。
世の中ほんとに思うようにならないものです。
しかし寺が浄土宗でよかったと思っています。
だって、また家族と会えるのですから。
その希望を同じ苦しみの中にいる人にお伝えしたいと思って坊さんをしています。
南無阿弥陀仏

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

信仰心・・されど信仰心ですね。

様々な出会い、ご縁はあって、皆さんお坊さんになられたと思います。
私は、家はお寺ではありませんでしたが、自宅にてご本尊をお祀りし小さな道場にて、父は僧侶として、そして母は、いわゆる霊能者(亡き方をみずからの肉体に宿し語る)でしたから、従来のような葬儀や法事でお寺を維持していような、お坊さん(宗教者)環境ではなかったです。
ゆえに、小さい頃から、死後の世界は当たり前、不思議なことは日常茶飯事でした。
両親は、それゆえ大変なる信仰心にて命がけでの布教を行っていました。

私は、15歳から家を出てお寺に入り、宗門の学校に通っていましたが、Meiryさんが問われるような信仰心を意識し、感じるまでは相当掛かりました。
信じて仰ぐということは、やはり、簡単なことではないかと思います。様々な体験、経験を通じて育まれていくのではと思います。
じゃあ、あなたは?と問われそうですが、自分の信じる宗教を、自信をもって言えること。他の宗教の教えも否定ではなく、受け入れながら寛容なる心で接することができることでしょうか。
ここでは、宗教自慢をするところではありませんので、あくまで信仰心ということで限定しまが、自分自身の中に、そしてすべての人々に尊き魂があるということを、信じること。これもも信仰心かもしれません。

どんどんと難しくなってしまいますので、このあたりでやめますが、Meiryさんも宗教に興味を持たれたのですから、今回の人生は、しっかりと学んでいってください。

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おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

質問者からのお礼

お忙しい中回答頂いたのに、返信遅くなり申し訳ございません。
私なりに明るく生きていく術が欲しく思っておりました。丁寧に回答して頂き、本当にありがとうございました。文才が無い上に、うまく返信する言葉が分からず申し訳ないです。
本当にありがとうござました。

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