罪をおかした人は幸せになってはいけないと思います。 なのでわたしは全ての希望を捨てます。子どもは生みませんし、いつか自殺しようとおもっています。 だってそのほうが世の中のためになりますよね? 人に手をあげてしまった私なんてしんだほうがいいと思います。私は死ぬべき命なんです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過去の質問も拝読しました。そのように自分を追いつめては、相手の方にも失礼です。もう忘れましょう。 過度に罪悪感にさいなまれる病気があると聞いたことがあります。一度お医者さんにかかる事をお勧めします。
その前に、手を上げた相手に謝ることと、嘘をついたことを謝りましょうね。 それをしないと前に進めないですよ。
追記 会えなくても手紙を渡してもらってはどうかな?
ありがとうございます。相手はもう会いたくないそうです……それでも謝罪をしたくてもできない八方塞がりです……
お坊さんこんにちわ。 いきなりですが質問したいです。 死にたいと思った時はどうすればいいですか? 私は軽度知的障害を持ってて今まで6社ほど勤めましたが5社は適応障害でやめました。 今は友達の仕事の手伝いをしてますが記憶力がなく臨機応変な対応もできず友達にも迷惑をかけてます。 毎日行きたくない、と思ってますが貯金も底をついたので無理して毎日行ってます。 あとニートになると家族にも迷惑をかけます。 もう疲れ果てました。 もういいや…と思う事が毎日あります
いつも問答を拝見させていただいております。私もこれまで娘を亡くしたことに関わる自分自身の心の持ち方について何度もご助言をいただきました。今回は、7歳の子どもに娘の死をどう説明したらよいのかをお示しいただきたいのです。 その子は私の姪の子ども(男児)で、娘は彼が生まれたときからずっと可愛がっており、彼もまた娘をとても慕っていました。彼が4歳の時に娘は亡くなりましたが、感受性の高い彼は娘の死を理解してはいるけれど、なぜいなくなってしまったのかが受け止めきれていないのです。娘の三回忌が過ぎたころ、彼は私にだけ問いかけました 「○○ちゃん(娘の呼び名)は若いのになんでお星さまになっちゃったんだろう?」 「何で死んだの?」ではない表現に彼の寂しさと優しさと娘への思いの深さを感じ、答えが出ませんでした。「○○は優しくてみんなが大好きだったから、お空のみんながこっちに来てよーって言ったのかもねー」と答えましたがとっさに思いついたので納得できるものではなかったでしょう。 大好きな人の死をごまかしではなく、でも 現実を傷つけずに話すことにはどうしたらよいでしょうか。
初めまして。 学生です。 私は大切な祖母が死んでしまうことが怖いです。 今まで私の人生は順風満帆ではなく、波が大きいタイプでした。祖母含め家族ともたくさん衝突したり八つ当たりしてしまったり、死にたいと言ってしまったこともあります。 今年は、就活という節目を迎えたこともありたくさん迷惑をかけてしまいましたが、最終的に祖母含め家族としっかりと向き合うことができ、私のことを理解し受け入れてもらうことができました。 祖母はその中でも特に寄り添ってくれていて、日中一緒に過ごす時間も長いです。現在、家族ともうまく付き合えており1番幸せですが、その反面高齢な祖母が死んでしまうのがだんだん怖くなってきました。 たくさんお話をしたりご飯を一緒に食べたりして過ごす毎に、いつまで続くんだろうと考えてしまいます。 飼い犬や親族など近い存在を亡くした経験が何回かあるため余計に怖いです。 祖母の死を怖いと感じず、残りの時間を楽しく祖母と過ごすにはどうしたら良いでしょうか。 お手隙の際にお返事いただければ幸いです。 長文失礼いたしました。
よろしくお願い申し上げます。20代、男です。自分は昔からふとした瞬間に死を意識してしまいます。 自分より苦労されている人がいるのにその人達はそんなふうには思わず一生懸命生きているように見えます。帰れる家も仕事もあり、自由に使えるお金もあるのにです。 さらに生まれつき脳に障害を抱えている弟がおり、これからその弟が死ぬまで不自由なく暮らしていく道筋も考えなければならないのに。 自分は真面目に生きられないダメな人間なのでしょうか?いっそ、世界にいらない自分はいなくなった方がいいのでしょうか?
夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。
現在32歳、独身、女です。 ここ最近ほぼ毎日のように「死ぬ時が怖い」と考えてしまいます。 人間関係や仕事については多少の不満はあれど人生の中でも1番充実していて、特別不安が強くなるような原因や心当たりはないのですが、半年ほど前から毎日死について考えてしまいます。 「死ぬ時はどんな恐怖を感じるのか」 「死ぬ時は何が起きて終わるのか」 「死で意識が無くなる事が怖い」 「一分一秒無駄にせずに生きなければ醜く後悔するのでは無いか」 と言ったふうに様々な不安があります。 仕事中でもふと考えて、動悸がしてくるときもあります。 なんとかしてこの不安感から離れる、あるいは先行きについて前向きに捉えられるようになりたいと思っているのですが、どのように考えたら良いのでしょうか…? 良いアドバイスや、お話などありましたらお願いいたします。
死んでしまえば、あらゆる恐怖から解放されますか?
「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。
現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
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